飛んで火に入る夏の虫
廊下に響く自分の足音が怖いので摺り足で歩いていた直樹の足が止まる。
「……っ!?」
某○○中学七不思議第二弾『ひとりでに鳴るピアノ』。夜な夜な音楽室の壁に立てかけられた肖像画からヴェートーベンの霊が抜け出し、グランドピアノで『エリーゼのために』という楽曲を奏でるのだと云う。
微かに開かれた音楽室の扉からピアノの音が漏れてくる。それを聞いた直樹の表情は強張り、この場から逃げようとした。だが、怖いもの見たさというかなんというか、直樹の足は音楽室の扉に引き寄せられていく。そして、小さく開かれた隙間から音楽室の中を覗き込んだ。
ジャジャジャジャ〜ン♪
突然ピアノが大きな音を出して曲が変わった。ヴェートーベンの『運命』だ。
大きな音に驚いて直樹が腰を抜かしていると、ピアノの音がパタリと止み、音楽室の扉がギィィっとホラーチックな重々しい音を立てて開かれた。
「……カッコ悪ぃ」
そこに立っていたのは宙だった。
「脅かすなよ……」
「別に脅かすつもりはなかった……ちょっとピアノが引きたくなっただけ……ひっく!」
こいつも酔っていた。
「おまえも酔ってるのかよ」
「酔ってなぃ……ひっく!」
いつもより血色のいい顔をした宙はほろ酔い加減だった。
宙の小柄な手が差し伸べられ、直樹はそれを掴んで立ち上がった。握った宙の手は温かい、やっぱりほろ酔いのようだ。
直樹が宙から手を離そうとすると、宙は直樹の手をぎゅっと掴んで離さず、直樹はそのまま音楽室の中へ引っ張り込まれてしまった。
「おい、なんだよ」
「……ピアノ聞かせてぁげる」
「はぁ?」
意味もわからないまま直樹はグランドピアノの前に立たされ、宙は椅子にちょこんと座り鍵盤に手を置いた。
静かな夜の演奏会。宙の繊細な指先から美しく可憐な曲が奏でられる。まさか、宙がこんな特技を持ってるなんて直樹は思いもしなかった。ちょっと意外。
優しくも力強い曲調――それはまるで月のイメージを彷彿とさせた。
穏やかな表情をしてピアノを奏でる宙に直樹が語りかけた。
「なんて曲?」
「ま、まさか、この曲を知らないなんて……低脳」
わざとらしく驚いて見せた宙は『低脳』の部分だけボソッと呟いた。完全な悪意が感じられる。てゆーか、からかわれてる。
「俺のこと低脳って言うな、これでも学校の勉強はできる方だぞ」
「学校の勉強だけが全てじゃなぃ。直樹クンは知識が乏しぃ……」
「知識が乏しいの認めるから、今おまえが弾いてる曲名教えろよ」
「……ぉ願ぃは?」
「そんなこと言うなら聞かん」
「……それは残念」
ボソッと呟いた宙は急にピアノを弾く手を止めた。
「どうしてやめるんだよ」
「だって、直樹クンがイジワルするから」
「イジワルしたのはおまえだろうが」
「ま、まさか!?」
わざとらしく驚いてみせる宙。絶対『まさか!?』なんて思ってない。からかってるだけ。
「俺のことからかってそんなに楽しいか?」
「楽しぃ……もぉ病みつきだね……クククッ」
ニコッと笑った宙が再び曲を奏ではじめた。先ほどと同じ曲だ。
ため息をついて一息入れた直樹が再び聞く。
「この曲なんていうんだよ?」
「ヴェートーベンの『月光』って名前」
「ふ〜ん、いい曲だな」
「前にもそう言った」
「えっ!?」
目を丸くした直樹に宙はもう一度同じことを言った。
「前にもそう言った」
「俺が?」
「他に誰がいる……直樹クンはばかだなぁ」
「そーゆー意味で聞いたんじゃねえよ。でも、マジで俺が言ったのかよ?」
「覚ぇてないのね……ちょっと寂しぃかも」
「はぁ?」
直樹は全く意味がわからなかった。第一、宙にそんなこと言った記憶がないし、なんで寂しがられるのか皆目検討つかなかった。
「直樹クンがこの曲ぃぃって言ったから、ワタシも好きになったのに……残念」
「だから、そんな記憶ないって」
「小学三年生の時言われた」
「はぁ? その時おまえのことなんて知らねえよ。それに俺と同じ小学校だったのかよ、記憶ねえぞ」
「影薄かったから」
今の宙も影が薄い。けれど存在感はある。昔の宙は影が薄いだけの存在だった。だから、宙と小学六年間一緒に過ごしたことも、同じクラスになったことも直樹の記憶にはなかった。
「直樹がぃぃって言ったから、たまにここに来て弾いてたのに」
「たまにここに来て?」
「……学校七不思議」
「おまえの仕業立ったのか!?」
「そぅかもね……『エリーゼのために』も弾いてたから」
また、急に宙はピアノを弾く手を止めた。そして、少し潤んだ瞳で直樹を見つめた。見つめられた直樹はかなり焦る。
「ど、どうしたんだよ!?」
「本当に覚えてなぃの? 昔は髪が今よりも長かったんだけど……?」
「だから、小学校の時のおまえなんか知らねえよ」
「同じクラスになったことも覚えてなぃの?」
「俺がおまえと!?」
「本当に覚えてないのね……すごく悲しぃ」
いつもはわざとらしい表情を作る宙だったが、この時の泣き顔は直樹の目に本気に映った。
宙を泣かせたのが自分であることに気づいた直樹は異常なまでに焦る。
「泣くなよ、泣くなって言ってんだろ。俺が悪いのかよ、俺かよ、俺が悪いよ、あ〜俺が悪いさ、だから泣くなよ」
「……片思ぃってつらぃ」
この発言を聞いた直樹が凍りつく。この状況でこの発言、マヌケな直樹でもわかる一言。明らかに自分のことだと直樹は瞬時に理解した。
「俺に? 俺か? 俺にか?」
「……うん」
涙目の宙が可愛らしく頷いて見せた。直樹の心、激殺!
まさか、まさかの展開に直樹はただ笑うしかなかった。
「あはは〜っ、悪い冗談はよせよ」
「冗談なんかじゃなぃ」
それは直樹にもわかっていた。ただ、冗談として片付けたかったのだ。宙とこんな展開になるなんて思っても見なかった。
宙の両手がそっと伸び、直樹の両袖をぎゅっと掴んだ。
「直樹クンの気持ち聞かせ……」
「……うっ」
「ワタシじゃだめ?」
「……うっ」
「ワタシは直樹クンのこと好きなのに……」
「……うっ」
どんどん追い込まれていく直樹。彼の袖口は宙によってぎゅっと掴まれ、逃げようにも逃げられない。しかも、袖口を掴まれる力は強くなっていた。
宙の顔が直樹の顔に近づいた次の瞬間、やわらかな感触が直樹の唇に伝わった。本日二度目だった。
慌てて顔を離した直樹の顔を悲しそうな宙の瞳が覗き込む。
「やっぱりワタシとじゃイヤ?」
「イヤとかじゃなくて、キスされるのは嬉しいけど……じゃなくって……そのなんだ?」
「嬉しぃんだ……」
「そうじゃなくて、俺とおまえは……」
「でも、わかった。直樹クンはワタシのこと好きにならなぃ……呪ってやる」
怖いほどの和やかな笑顔を浮かべる宙。この瞬間、直樹は宙に呪い殺されるとマジで思った。
どこからともなくカナヅチとワラ人形を取り出した宙は、ワラ人形に向かって杭を打ちつけはじめた。よく見るとワラ人形に『直樹』と書かれているのは言うまでもない。
カーン!
カーン!
カーン!
ワラ人形に軽快なリズムで杭が打ち込まれる。
直樹は胸を押さえて床に膝をついた。即効性のある呪が襲い掛かったのだ。恐るべし見上宙!
作品名:飛んで火に入る夏の虫 作家名:秋月あきら(秋月瑛)