筆者クーデター
この深呼吸が大失敗。さっきはカステラ屋さんから遠かったから、みのり町の清らかな空気で、浄化され、洗練されていたのだ。わかったかね。ワトスン君。
お店との距離、わずか5歩。むき出しの、暴力的で、角張っていて、かと思えば、所々怠けてしまっている。その粘っこい砂糖の香りは、琴夜のイケイケ気分を陥落させてしまうには、十分すぎるエナジィを持っていた。
すっかりいい気分を失ってしまった琴夜は、俯き気味に、とぼとぼと歩き出した。目的地は、駐輪場です。
現在、みのり駅の高架下は耐震補強工事が行われている。もう一年になるだろうか。高架下は、一面緑色の防音シートで覆われているが、重々しい雰囲気は隠し きれていない。
コンクリートを砕く音が、高架下に反響し、増幅し、何とも不愉快である。タイルの地面を削っていたから、砂の匂いもする。これも不愉快。
駅の出口から、高架下の駐輪場へ下りる階段は、工事のため、元々十メートル程あった幅が、防音シートで、二メートルまで限定されてしまっている。ちょうどトンネルのようになっており、琴夜はぶっちゃけそこが好きだった。
そのトンネルに入り、階段に入場。落ちるように下る。階段を早く、かつ安全に下りるコツは、足を上げずに、スライドさせて、落とす。三回やれば習得出来るはず。これ、宿題ね。
駐輪場へ入る三つの入り口は、これまた工事のため二つに減っていた、一つは通常通りの大きさだが、もう一つは、仮設のスロープが作られ、トンネル状になっていた。これも好きです。
スロープを上る時は、誇りが舞うと共に、ベニヤ板がバウンドする音が響く。これも風情がありますなあ。さて駐輪場へ入ると、ロングコートの男性が一人居た。なかなか美形である。しかし、怪しい。琴夜の自転車の前に立っているのだ。ただ、立っているだけ。
恐怖感は無かった。美形に悪い人は居ないという、かってな持論によってかき消されてしまったのである。
気にしていない風をして、自転車に手をかけた。
「山吹琴夜さんですか?」
これには驚いた。なぜ私の名前を知っているの?ここでようやく恐怖感のようなものが湧いてきた。自分でも驚いたが、次の瞬間には、口が開いていた。
そうですけど・・・あなたは?
男性は大げさに目を見開いて、肩をすくめた。
「驚いたな。本当だったのか」
ちょっとイラッ。なんで無視なの?
えっと・・・聞こえませんでした?どちら様ですか?どいていただけますか?
ちょっと強めにコメント。
「ああ、すみません。僕は、阿湯葉道流と申します。S大学で教授を勤めています」
またまた驚いた。そんな、ちょーエリートジャングル御偉いですね、嫌みですか?大学の教授さんが、私なんかの妄想女子高生になんの要だと云うのだろうか?
え?教授さん?何の御用でしょうか?
「はい。僕は大学では文学を専門にしておりまして、あなたの全く新しい文学形式に興味を持って、お声をかけさせていただきました」
全く新しい、文学形式?
「はい」
阿湯葉は大きく頷いた。
え?でも、私、小説なんか応募した事もありませんし、書いた事なんて、小学生以来ありません。
男性はくすくすと笑った。
「いえいえ、そう云う事ではありませんよ。作品ではなく、あなた自身なのです」
はい?意味が分かりません。
「それですよ」
阿湯葉は即答した。
何がですか?
「あなたの言葉です」
ますますわけが分からない。
あの、全然話が見えてこないのですが・・・
「そうでしょう。あなたには見えませんから」
・・・
「あなたには、鍵括弧がついていないのです」
わけが分からなかった。鍵括弧?頭がおかしいのか?この男。阿湯葉とか云ったっけ?本当に教授なのか?怪しすぎる。
すみません急いでいますので
「あなたの言葉は全て地の文になる…それがどれほど素晴らしいことか…」
自転車に鍵を差し込もうとしたそのとき。男に自転車の鍵をとられてしまった。
ちょっと!何するんですか!
男は鍵を握りしめ、高く上げている。
「落ち着いてください」
これが落ち着いていられますか?冗談じゃありません!返してください!
「『男から、鍵を取り返した』と云ってください」
何をおかしな事!返して!
琴夜は必死に手を伸ばすが、男は長身で、ジャンプしてもせいぜい肘までが限界だった。
「云ってくだされば終わります」
男は無表情だ。なんだ?そう云うフェチなのか?
分かりましたよ!ええと?なんて云えばいいんです?
男はにこやかになった。
「『琴夜は男から鍵を取り返した』です。漢字は気にしなくて結構」
琴夜は男から鍵を取り返した!
男の話がまだ終わらない段階で、その『セリフ』声に出していた。
これで満足?
男はにやりと笑い、ゆっくりと手を開いた。しかし鍵は落ちてこない。そして、男は琴夜の左手を指差した。
形状、サビの斑点、正真正銘琴夜の自転車の鍵が、そこにはあった。
え?どうして?
「あなたには鍵括弧が無い。これが意味する事は、あなたが、この世界の神である証拠であります」
神?私が?
「文学、特にミステリ小説では、地の文では嘘をついては行けないという、ルールがあります。と云う事は、鍵括弧が無い文章は、地の文と見なされ、すべて真 実であるのです。読者にとっては」
読者?
「はい。あなたの言葉には鍵括弧がありません。従って、あなたが云った言葉は、この世界では、全て真実となるのです。さきほど、『男から鍵を取り返した』 とおっしゃりました。地の文は真実ですから、読者には、琴夜さんが、僕から鍵を取り返した事になり、あなたの手に返っていたのです」
え?じゃあ・・・
「あなたは神です。もう一度試してみましょう。『琴夜は、男と別れ、自転車に乗り、自宅に帰った』どうぞ」
唇が震える。
琴夜は、男と別れ、自転車で、自宅に帰った。
「お帰りなさい」
キッチンからお母さんのつやのある声が聞こえた。
ただいま!
「ご飯は一時間待ってね」
はーい!
琴夜はそう叫びながら、二階の自室へ急いだ。
嘘でしょ!すごい!すごいよ!最高じゃない!えっと、えっと、じゃあね、いろいろ試してみよう。まずは、落ち着いて、琴夜は制服を脱いで、私服に着替え た!
服を見ると、お気に入りの私服に着替え終わっていた。
すごい!次は、「ご飯ですよ」というお母さんの声が、一階から聞こえた。はーい!今行く!
「もう出来ていたんだった。どうぞ。召し上がれ」
目の前に、白いご飯とみそ汁、さらに、レバニラ・・・レバニラ?嫌いなのに!
琴夜は一度目を擦ってよく見てみると、カルボナーラだった。見間違っていたのだ。
うわー美味しそう!いただきます!
お母さんは嬉しそうに。
「おかしな子」
と云った。
琴夜はカルボナーラをすすりながら、次に何をしようかと、頭をフル回転させていた。宝くじ?成績?新太先生?いやいや、私は神様なの!もっと大きい事をし なくちゃ!
食事を終え、琴夜は部屋に籠った。
何しようかなあ?あっ成績表!今のままでも良いけれど、どうせならもっといいように。