ヤマト航海日誌
そんな話は棚に置いて、アニゴジ映画のCMを見ると、完全に『タートル・キング』そのまんま。日本アニメは作画技術以外は何も進歩しておらず、脚本術は『ファースト・ヤマト』や『ファースト・ガンダム』以前の時代に退行しているのがわかる。
『怪獣惑星』のCMは、おれが昔に大連チャンした〈ガッチャマン〉のパチンコ台のスーパーリーチそのものだ。ロボット怪獣〈タートル・キング〉。それに向かうは〈大鷲の健〉が乗り込むスーパーメカ〈G1号〉。7と7でリーチになった。それもなんとストーリーリーチだ!
燃える街を前にして、健とジョーはいがみ合う。ジョーは叫ぶ。「健! どうして、お前は焼き鳥を食うときに、肉から串を抜きやがるんだ。おれは前からおめえってやつのそういうところが気に食わねえ!」
「ジョー、おれ達は小さいときから人と争って、勝つことを教えられて育ってきた。学校に入るときも、社会に出てからも人と競争し、勝つことを要求される。しかし……」
画面の隅で7と7の間の数字がめまぐるしく変わっている。
「ギャラクターを憎む気持ちはおれも同じだ。だが憎しみは何も生まない。おれ達が今すべきは愛し合うことではないのか」
「ゴタクはやめろ! おれはおめえに焼き鳥の肉から串を抜くなと言うんだ!」
「憎しみから〈くし〉を抜いたら〈にみ〉になる」
「バカ野郎!」
《767》で数字が止まった。ハズレ……かな、と思ったら、
「ケーン!」
とジュンのカットイン! また数字が回り始めた! こいつはますます期待大だぞ!
〈G1号〉で健は〈タートル・キング〉に向かう。そうだ、ギャラクター、お前は敵だ。幼き日に貴様らにおれは両親を殺されたのだ。おれの父さんと母さんを返せ。幸せだった生活を返せ。おれはこの地球を護る。お前達に渡しはしない。この命に替えてでも、必ず貴様らの野望を潰す。
「うおおおおおおうっっっ!!!!!」
健は叫んだ。と、そのとき、
「ああ!」とジュン。「〈G1号〉の尾翼の数字が《1》から《2》に変わったわ!」
ジョーが言う。「え? 2号はおれだけど」
「黙ってて! さらに3、4、5、とどんどん上がっていく!」
「えーっ? そりゃ、どういうことだ?」
「成長よ! 健が成長しているのよ! 〈G5号〉から〈G6号〉、7号、8号、9、10、11……どんどん数値が上がっていく。これなら……これなら……」
「あの〈タートル・キング〉に勝てるのか!」
「そうよ! バンカーバスターに核を詰めて落としても倒せなかった〈タートル・キング〉! けれどこのまま、健が成長を続けたならば……ああっ、もう〈G20号〉だわ!」
「しかし、健の体がもつのか?」
〈タートル・キング〉のまわりをグルグルまわりながら成長を続ける健の乗機。尾翼の数字が《30》、《40》……と上がっていく。おお、なんか松本零士〈ザ・コクピット〉の『ブラックアウト108』のようでもあるぞ。あのマンガと同じように、コクピットの中の健には強烈なGがかかるはずだが、〈タートル・キング〉に勝てるところまで成長するのに果たして耐えられるのであろうか?
尾翼の数字が遂に《99》に達した。今の健は〈G99号〉。けれども、なんと健より先に、機体の方に限界が来た。戦闘機は空中分解。バラバラになって宙に散らばる。
ハズレか?と、思ったそのときだった。破片の中から白い翼を広げて飛び出したのは〈大鷲の健〉。その背中には《100》の文字が!
「ハンドレッド・タキザワ・キィ――ック!」
タキザワ? なんのこっちゃい、と、思う間もなく〈タートル・キング〉に健は飛び蹴りを喰らわせる。まさか、〈バンカーバスター(地中貫通型爆弾)〉に核を詰めてブチかましても破壊できなかったロボ怪獣を、生身の人間のキックが倒すなんてことがあるのか?
7と7の間の数字はまだ変動を続けている。画面一杯に大きくなって、その動きがゆっくりとなった。1、2、3、4、5、6、6、6……。
7? あ、いや、通り過ぎた。8……行くな、戻れ、戻れ……。
さて、どうなったでしょう。あのときおれは大爆連チャンしたんだけれど。このサイトにおれが出してる『スタンレーの魔女』には、クライマックスに古代が〈ゼロ〉でガミラスと戦うスペシャルリーチを、こんな感じでケレン味たっぷり、だけどマジメでちゃんとリアルでこの何倍もカッコよく既に作って用意してあります。だからそれが早く読みたきゃ君らの方でおれが早く書けるようにしろってことです。読む人間が増えない限りおれはペースを上げません。
『怪獣惑星』のテレビCMは君らもまた見てるだろう。だからまるきりこのまんまだとわかるだろう。『ガッチャマン』だよ完全に。リアリティのカケラもない幼稚なお子様向けアニメだ。なんの進歩もないどころか、1972年に逆戻り。
パチンコのリーチだったらこれでいいがね。〈伊藤計劃の夢のゴジラ〉。おれはいろいろ考えたけど、結局のところ『このアイデアは素晴らしいがおれは買わない。自分で一から作る』と決めたと前回に書いた。で、〈1968〉で行くとね。
おれの場合はあえて自分から過去に戻る。'72よりさらに過去に――理由のひとつはこの前にも書いたように、『これは無理だ』と思ったからだ。
『カッコいいからこれで行こう』などと安易に考える前に、亡き天才はこの案を悪夢として見たというのをよく考えてみなければならない。地中貫通型爆弾に通常の爆薬を詰めて落としてもゴジラを殺れず、次は中身を核に変えて同じことをやるしかない。だが核なら殺せるのか? 効かなければ次はどうする?
なんていうような〈ゴジラのトリル〉を枕に聴いて、起きたところで故人はブログに書き留めた。当人はこの問題になんの答も出してはいない。
その点をよく考えてみなければならない。『虐殺器官』も元はと言えばゲームの二次創作であったものを、主人公の名前その他を変えて自分で一から作り直したものだというから、書こうと思えば書けたわけだよ。『ギャクラ』とでもなんとでもいうのを。
だが書かなかった。書かなかったが、書こうとも、ほんとに思わなかったんだろうか。そこがおれには、ひょっとして――という気がしなくもないんだがな。
そうだ。おれは以前に書いた。『ハーモニー』よりこいつを書けばよかったのにと。で、あらためていま思うに、ひょっとしたら実は書こうとしたんじゃないのか。
『虐殺器官』と『ハーモニー』の間に書こうとしたが書かずに終わったエピソードがあるらしい。その内容を推し量るに、なんだかどうも、そいつはこの〈ゴジラのトリル〉に似ている気がしなくもない。
『虐殺器官』と『ハーモニー』。ふたつの話が描く小説世界の歴史に、人類が核で滅亡しかけた時代があった。おれはなんだか『虐殺器官』を読みながら、気になったことがひとつあった。〈クジラの肉から造られた生体ロボット〉なんてものが話の中に出てくるけれど、どうもこいつはなんか妙だ。話にうまく溶け込んでなくて、おにぎりの中の梅干の種みたいに歯に当たって口の中でゴロゴロする――あの小説を読みながら、そんなふうに感じた人いませんか。