父と娘、時々息子
02・我が家の普通
めんどくさがりのマメ男さんであった父、その血を色濃く受け継いでしまった女と男の性格を使い分けてしまう私、何を考えているのかよくわからない弟の三人が私の家の形だ。
一般家庭ならここに母、父にとっては妻がいるが、私達にはいないことが当たり前だった。
それは否定的な意味ではなく、肯定的な意味合いで母がいないことが我が家の普通。
勿論、母という存在はちゃんといた。
だが、母は32歳という若さで病を患い、天へ召された。
それ以来、3人ぼっちになってしまった家庭形態だ。
しかも、またさらに事情があって、6年間父と離ればなれで暮らしていた。
当時は私も5歳になりたてではあったが、自我が芽生えるのが早かったのか、そこらへんの記憶はしっかりと私の中にある。
おそらく、母がいなくなったことによってあの年代にあったことすべてが、私のトラウマとして残っているのではないかと思う。
実際、その断片的な記憶を辿っても、慣れている親戚であれ少し恐れを持っており、「ちゃんといい子でいなきゃ、怒られたりするかもしれない。」と常に怯えていた。
父に対しては、恨んでいたこともあった。
母が亡くなり、すぐに仕事をして、仕事をするために私たちを金沢に預けて、父は私達を置き去りにしたとまで思っていた。
どうして父の手一つで自分の子供すら育てられないのか、とね。
それを思っていたのは思春期までの話しで、私が働き始めてから、父と呑むようになって当時の正直な気持ちを聞くようになってからは、感謝だけでは足りないけれど感謝という言葉しか出てこないのがもどかしい。
母が亡くなり、私と弟は母方の実家がある金沢で育てられることになり、父は単身大阪に留まって仕事を続けることになる。
月に1〜2回、土曜日の昼ぐらいに金沢に到着し、日曜一日過ごして、月曜の早朝にはすでに大阪へ帰った後でいなくなっているというのが、一番寂しくて堪えた。
それでも、「これが普通にならないといけない」そう思えば思うほど、寂しさも不安も一気に押し寄せてきて、月曜日の朝が大嫌いになった。
そして、金沢で身につけた術は、父を親戚のおじさんと思うように努めた。
父と思えば、別れるときに号泣してしがみついて、父を困らせることをよくしていたため、ある時期からたまに帰ってくる親戚のおじさんという設定を私の中で作り上げた。
そうすることで、少しは困らせることもなくなり、子供の私も心情的に楽だった。