父と娘、時々息子
私が泣くときは悲しい、寂しい、楽しい、嬉しい、腹が立つという感情の揺れが激しく、縁から溢れ出すような勢いがある出来事に遭遇すると弱い。
喜怒哀楽関係なく、泣くこともあるが、それはドライアイである為で、今の話とは関係はない。
それにしても感情があふれ出すような出来事ってこの世の中、そんなにないと思う人が大半ではなかろうか。
インスタントが要求される昨今、妥協性が重要視されるとどうしてもひとまず置かねばならないのが自我とこだわりであり、また来のことによって働く人に【機械化】を遠巻きにすすめる宿図に、飽き飽きしているわけだ。
そう、私は逆行している。
感じることすべてをかみ砕き、ゆっくり飲み込むことに妥協することは絶対にない。
ニュアンス、直感が大事な場面というのは一日に5度もあれば十分なのだが、そのスピードを会社の上司や顧客、上下関係が発生すると要求されがちである。それは現実として、本来は無理なことだ。
人はそもそも、感じてから考える生物であり、また考えて感じる生物であるがため、時間を重要視してきた。
その時間が短ければ短いほど重宝され、名前が歴史上に残っているに過ぎない。
ある学者は時代を遡れば遡るほど、人の作業時間軸はとても遅かったとしている。
現代の人たちの話し方は早口言葉並みになるらしい。
そう聞くと現代人も訓練によってここまで、一つの行動に素早さを加えられたということである。
そこをさらにさらに上に行かんかい!なんて要求されるならまだしも、出来て当たり前なんか言われた日には、じゃぁ、自分でせんかい!と突っ込みたくもなる。
実際突っ込もうもんなら、すぐ足の引っ張り合いだ。
調和を強調する割に一番妥協していると思われても仕方のない風潮になりつつある。