永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
同年四月二八日、勝海舟の死に続けて新永井十訣の最長老にして藤田の師でもあった保科(西郷)頼母が死去する。彼は四郎を東京に送った後、日光東照宮を辞し、福島県の霊山神社の宮司となっていたが、そこで武田惣角と云う弟子を取るのであった。武田は元々死んだ榊原謙吉の弟子で、頼母と出会うことにより、大東流合気柔術を創始することとなるのである。この「大東」とは彼の発想ではないが、後に大東思想と結びついていく宗教用語なのであった。その後頼母は西郷隆盛との親交を疑われて霊山神社の職も追われ、会津若松の長屋で、七四年の寂しい生涯を閉じるのである。その一方藤田の実子の四郎は、当時講道館を出奔していたのであった。そして長崎で柔道、弓道そして水泳の指導をしていたのである。
この年の十一月四日、今度は西郷隆盛の従弟大山巌元帥陸軍大将を満州軍総司令官として、ついに日露戦争が勃発したのであった。ただ陸軍において実質的に軍を指揮したのは、陸軍大将満州軍総参謀長児玉源太郎だったのである。児玉はあの西南戦争の時、谷干城の下で熊本城を守り切った者の一人であった。因みにこの戦争では、陸軍少将秋山好古(よしふる)が騎馬隊を率いて大活躍し、そこから新撰組の原田左之助が生き残ってこの地で馬賊となり、日本軍に加勢したと云う伝説が残っている。しかしもし彼だとしたら、考えてみれば年齢が六四を超えており、初めからいささか無理な話ではあったのだ。陸戦は苦しい戦いの連続であったが、明治三七年二月八日何とか日本は大国ロシアに勝利し、参戦していた勉も、戦死者が多い中手柄を立て、功四級金(きん)鵄(し)勲(くん)章(しょう)を受けたのである。
凱旋した勉は、西野みどりの卒業を待って明治三九年、晴れて結ばれたのであった。酒田からも親を始め親戚縁者が大挙出て来て、披露宴は思い出の牛込の料亭麹屋で行われたのであった。披露宴には大鳥圭介男爵や当時検疫事務支所長であった室(むろ)田(た)景(かげ)辰(とき)や時尾のいとこの東京女子高等師範学校校長高嶺秀夫や義弟の盛之輔検事正などが集まり、いささか藤田家を侮っていた西尾家の人々は、この家は一体どう云う家なのだろう、と首をかしげたのである。この実家の者達の疑問は、後々みどりの口から丁寧に解説されるのであった。
因みに次男の剛は、この後すぐに旧会津藩家老田中土佐の孫娘、浅羽ユキと結ばれるのである。この田中土佐とは、会津戦争で同じく家老の神保内蔵助と刺し違えた硬骨漢であった。
明治四二年九月二八日、勉の子にして五郎の初孫素子生まれる。この年彼は、高嶺秀夫が体調を崩して東京女子高等師範学校校長を辞するのに伴い、同校を退職するのであった。翌年の明治四三年二月二二日、高嶺は帰らぬ人となるのである。
明治四四年六月十五日、大鳥圭介死去、享年八十歳であった。戊辰戦争では負け続けであったが、彼が常に最前線で活躍し続けたのは、その明晰な頭脳のたまものと言って良かっただろう。会津戦争の時、気難しい藤田と親しかったのも、不思議な縁であったと言えよう。
明治四五年、大正元年初春、勉とみどりの子實(まこと)が生まれる。この頃五郎は孫の病弱な素子を連れて、いかにも御隠居らしい姿で近くの公園(小石川後楽園)に遊びに行くことが多かったのである。この公園は、水戸徳川家水戸藩の庭園で、永井十訣のこうの先祖が仕えていた朱舜水が『後楽園』と名付けたのであった。ある日いつものように孫を連れて公園に出掛けると、一人の青年(後の昭和の剣豪山本忠次郎)が、大泉水の辺(ほとり)の、蕾のほころび始めた桜の木で空き缶を木から吊るし、手にしていた剣道竹刀でそれを狙って突きの鍛錬をしていたのである。素子と二人でしばらくその様子を見ていたのだが、青年はいくらやってもうまく突けないので、先程から横で見物している年寄りと孫の方を見やったのだった。そして若者は、戯れにこう言ったのである。
「じいさん、見ていて面白いかい。」
五郎はにやにやしながら、この問にこう答えたのだった。
「お若いの。随分面白そうなことをやっておるのう。一つこの爺にも、やらせてくれんかの。」
それを傍らで聞いていた素子は、生気の無い顔をほころばせて、元気にこう言ったのである。
「爺々もやるの? 爺々は昔すごく強かったんでしょ。素子に強いとこ見せて。」
「あぁ、よしよし、今爺々の強い所見せてあげるからね。」
そう言って五郎は若者から竹刀を受け取ると、いつものようにへなへなな腰付きで剣を構えたのだった。そして、
「えい。」
と一声気合いを入れると、目にも留まらぬ速さで左片手突きがなされていて、金属製の空き缶に穴を開けたのである。空き缶は桜から吊るされているだけだったが、ぴくりとも動かなかったと云う。
「わあ、爺々すごぉーい。」
と素子が歓声を挙げると、五郎は彼女の頭を優しく撫で、竹刀を若者に返してその場を立ち去ったのであった。若者はそれを黙って受け取り、驚きの余りその名を問うことも、自らの名を名乗ることも無く、そのまま二人を見送ってしまったのである。
二人が帰る途中、今し方まではしゃいでいた素子が急にぐったりし、驚いた五郎が彼女を背負って帰宅したのだった。みどりが慌てて家の中から出てくると、素子は彼女に抱き抱えられながら、苦しい息を吐きつつ、こう言ったのである。
「あのね。爺々がすごかったの。空き缶を、えい、って言って穴をあけちゃったんだよ。」
その夜三月六日、時尾の治癒能力も空しく、素子は呆気なく夭折してしまったのであった。五郎はこの時、泣いてみどりに詫びたのである。
「みどりさん、済まなんだ。まさか素子がここまで弱っていようとは思いもよらなかったのだ。」
みどりは前年生まれた實を抱きながら、こう言って泣いたのであった。
「お父様。そのようなことを仰らないで下さい。素子はこの世を去る前に、お父様の神技のお陰で、満足しておりました。きっとこの世に未練無く逝けたことでしょう。本当にありがとうございました。」
ただみどりはこの前年、長男實を、大正二年、次女律を、四年には恭子を産んだのであった。五郎達はこれによって素子の死を一時忘れ、みどりの子沢山を皆で喜んだのである。
大正二年、良くも悪くも長い幕藩体制に幕を引いた最期の将軍徳川慶喜が息を引き取ったのであった。藤田らが悔やんでも悔やみきれないのは、鳥羽伏見の戦いにおいて、彼が大坂城から松平容保らを引き連れて、兵を全て置き去りにして江戸に逃げてしまったことである。あれが全ての勝敗を決定づけてしまったのであった。しかし一方皮肉な話だが、慶喜の決断が明治維新と云う新しい歴史の一幕を開けたとも言えるのである。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊