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永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)

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「五郎様。お話は分かりました。ですが収入が今まで十八円だったのが減るのは致し方ございませんね。勉も来年陸軍幼年学校に上がる予定ですので、収入減を何とかせねばなりません。私たった今思いついたのですが、盛之輔か高嶺にお願いして、下宿人を紹介して頂きましょう。勉の部屋が空きますから、その部屋で下宿人を取るのです。」
 因みにこの年の七月一日、二人の旧主永井尚志が静かに息を引き取ったのであった。永井が危篤状態を続けていたことが、五郎の退職の引き金となったようなのである。実は止める前に五郎は、向島の永井の所に相談に行っていたのだった。その時永井は余り具合が良くなく、臥せったまま彼に応対したのだった。
「殿様、お加減が悪いと云うのに押し掛けまして、失礼致しました。また改めて出直し致します。」
 すると、永井は寝ながら可愛い元手下のために、苦しいのを押してこう言ったのであった。
「待つのだ、藤田。寝たままで済まないが、御無沙汰していたお前が尋ねてくるとは、何か余程のことがあるのだろう。遠慮せずに言うが良い。」
 かつての主人にそう見透かされ、彼は思い切って要件を切り出したのである。
「実は私は、もう人を力でねじ倒すのはうんざりしているのです。倒される者の気持ちが分かってしまったのです。具体的には、もう私は警視庁を明日にも辞さんと思います。旧主である殿様は、これをどのように思われるでしょうか。」
 永井は伏したまま、やっとこう答えたのだった。
「そうか、良く分かった。お前に施した『死人暗示』は、もう完全にその効力を失ったようじゃの。良いぞ、藤田。わしの命はもうそう長くは無い。もうお前を縛る物は何も無くなるのじゃ。もうお前は十分過ぎるほどその力を何かの為に使ってきた。だがの。その力を自分の為に使うことは無かったのじゃ。もう良い。お前は解き放たれた。お前の好きな道を行くが良い。何者もそれを阻む者はもはやいないのじゃ。ただし…。」
「ただし、何でございましょう?」
 永井はここで大きく息を吸い込み、自分の言葉を一つ一つ確かめるように続けたのである。
「ただし、お主自身がたとえもう一度元の自分に戻りたいと思い、それが可能だとしても、もう決して戻ることは無いと、ここでわしに約してくれぬだろうか。」
 何故、永井が急にそんなことを言い出したのか図り兼ねたが、斎藤は意を決してこう答えたのだった。
「承知致しました。この藤田五郎、ここに殿様にお誓い申し上げます。たとえどんなことがあろうと、元には戻らぬと。」
 永井は最期に、必死の形相で藤田を見つめながら、何とかこう吐けたのである。
「良いぞ、藤田。主は明日警視庁を辞し、新たなるお前に生まれ変わるのじゃ。」
 この永井の住む岩瀬忠震(ただなり)の屋敷「岐雲園」は、彼の死後人手に渡り、最終的には明治の文豪幸田露伴の家となるのであった。そして露伴と娘文(あや)との愛憎劇の舞台となるのである。
 因みに近所に住む古閑?次とは、その後も飲酒等の交流が続くのであった。彼は消防署長となって消防の神とまで呼ばれるが、明治三七年十一月四日、火事現場で上から落ちて来た瓦が頭部を直撃し、命を落とすのである。
  第六場 新たなる旅路
 明治二四年五月十一日、藤田や古閑が警視庁を退職した直後、大津事件と呼ばれる事件が日本中を揺るがしたのであった。この事件とは、当時物見遊山で来日していたロシア皇太子ニコライ(後のニコライ二世)が、滋賀県滋賀郡大津市に馬車で差し掛かった時、沿道の警護に当たっていた巡査津田三蔵が、突然持っていたサーベルで斬り掛かって重傷を負わせてしまったと云うものである。幸い皇太子は命を取り留めたものの、天皇を含めた日本中からの謝罪の言葉も空しく、そのまま即刻母国ロシアに帰ってしまったのだった。この事件は、当時微妙な関係にあった日本とロシアが、これで数年後ニコライがロシア皇帝となった時、開戦することが余儀なくなったと、日本側を覚悟させた事件である。歴史にもしもの話は禁句なのは百も承知だが、もしも藤田達の退職や室田の昇進があと数カ月でも遅れていれば、この様な事件は起こらなかったと思われるのと同時に、この十数年後に勃発する血みどろの日露戦争も回避されたのではないか、と思えてならないのであった。
 ところで警視庁を辞めた藤田五郎は、明治三二年まで東京高等師範学校付属東京博物館に務めたが、その時の勤務態度はすこぶる真面目で、誠守衛長としては贅沢の限りであっただろう。
 明治二六年、長男の勉は陸軍幼年学校に進み、空いた部屋を使って時尾が女学生用の下宿を始めたのであった。後に勉は、陸軍士官学校へ進み、次男の剛は階下で、五郎・時尾と共に住むこととしたのである。
 この年の十二月四日、日光東照宮の禰宜を辞めて会津を経て東京に戻っていた松平容保が、ついに病で命を落としたのであった。永井の死に続けてこの訃報が藤田の元に届いた時、自らの警視庁退任も含めて、一つの時代が終わったことを、彼は痛切に感じたのである。
 翌年明治二十七年日清戦争が勃発し、藤田の友人で、当時朝鮮国公使であった大鳥圭介がそれには大いに関わっていたのであった。また、死んだ坂本龍馬の海援隊を率いていた陸奥宗光外務大臣も、幕府以来の諸外国との不平等条約を覆すべく、西南戦争の折熊本城に立てこもった将の一人川上総六と共に清との開戦を画策したのである。そこで陸奥は日英通商航海条約を結び、戦争に必勝を帰したのであった。高杉晋作の後を継いで奇兵隊を率いていた山形有朋が第一司令官となり、戦線は開かれたのである。そのさ中の九月十一日、新永井十訣の一人榊原謙吉が没するのであった。
 その後、藤田と会津で共に戦い、土方や永井や大鳥と箱館で戦った立見(たつみ)尚(なお)文(ぶみ)陸軍少将が九連城を奪取するなど、藤田の戦友やかつての敵が活躍する中、本来なら彼の奥義を炸裂させる良い機会であったにも拘らず、全ての戦いを放棄した彼には全て関知しないことだったのである。戦争は二年後、藤田が日本で平和に過ごしている内に集結したのであった。
 明治三一年二月四日、親友の山川浩が死去する。彼は死ぬ直前『京都守護職始末』と云う書物を執筆しており、彼の死後、弟の健次郎の手によってその本は完成されたのだった。しかしその中には、亡き孝明天皇が松平容保公に下された勤王の詔勅の存在が明らかにされており、薩長による天下転覆の正当性が覆される内容が書かれていたのである。これを知った明治政府によってこの本の出版は差し止められ、実際出版されるのは、明治末年の四四年まで待たなければならなかったのであった。
 明治三二年一月十九日、勝海舟は脳溢血で死去する。彼は明治政府の要職にありながら、旧幕府の遺臣を保護することに尽力し、特に永井尚志は、職を退いた後の生活を全面的に援助してもらっていたのであった。因みにこの年、藤田は義理の兄の山口廣明も失ったのである。また、廣明は一人娘ユキも先に死んでいたので、これで山口家は断絶してしまうのである。