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永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)

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「昨日、本郷区森川町の知人を訪ねましたら、知人は留守だったので帰ろうとしました所、隣に住んでいる者が、洋語交じりで森大臣暗殺の相談を密かに話しているのが聞こえて来たのです。そこで急いでお知らせに参りました。」
と云うことだったので、
「ここにしばらくいるように。」
と告げて、念のため得能閑四郎を彼の見張りに置き、大臣の参内時刻になったので、室田もそれに着き従うため急いだのである。室田は大臣の秘書と警備の配置についての話をし、途中の警備に注意しながら、森大臣が邸を出る前に吉国警部と駆け足で森邸を出たのだった。しかし、全てはかえって余計なことをしてしまっていたのだったのである。彼らが桜田門外派出所の手前まで来た時、
「森大臣、森邸玄関前で西野文太郎に刺される。」
と報告があったのだ。西野は寒いから、熱い茶を得能に求め、室田から特に警戒するように言われていなかった彼を信用し、茶を入れる為にその場をほんのすこし離れてしまったのである。その隙に応接室を抜け出した西野は、たまたま外出する所の森大臣に出くわし、彼はその時まず大臣にこう聞いたのである。
「森閣下でいらっしゃいますか?」
「いかにも。君は誰だったかな。」
「御免。」
と言って西野は隠し持っていた出刃包丁を出して森大臣に抱きつき、それを突き刺したのであった。お茶を入れて戻ってきた得能がすぐに彼を捕縛したが、刺された大臣はすぐに病院に運ばれ、介護の甲斐無く彼は命を落としたのであった。
 室田は得能のミスを攻めることも公にすることも無く、その場にやるべき後始末を終えると、進退伺を出したのだが、彼が部下を庇っていることも上部に知れ、折(おり)田(た)平(へい)内(ない)警視総監の命令で、室田には何のお咎めも無かったのである。得能は室田に救われ、こう言ったのであった。
「室田さん、私を庇ってくれて感謝しておりますが、私は免職になっても構わんのですよ。」
 室田は得能の言葉を聞き、笑いながらこう答えたのである。
「何、僕が西野のことをあまり信用し過ぎたのがそもそもの失態なんだ。君のミスではない。気にするな。」
「このご恩は、仕事で返させていただきます。」
と言って得能は男泣きに泣いたのであった。藤田や古(こ)閑(が)?(たん)次(じ)は、肩を叩いて彼を慰めたのである。
「得能、手柄を立てることもあれば、しくじることもあるさ。もう忘れろ。」
 得能は、泣きながら何度も頷いたのであった。
 またこの年は、京都の武徳会の第一回大会があり、得能関四郎と共に吉田勝見となった漢升が剣士として参加して大活躍し、吉田は精錬証を受けるなど、楽しい知らせも入っていたのである。この武徳会には、二人の勧めで藤田も名前だけは加入していたのだった。
 あるいはこの頃藤田は当時彼の家の近くに居を構えていた古(こ)閑(が)?(たん)次(じ)と義弟の高木盛之輔や友人の山川浩、大鳥圭介、高嶺秀夫らとお互いの家を行き来して飲み歩き、時尾を心配させていたのである。藤田はこの頃から黙って酒を飲まず、飲んでは昔のことを友人達と大声で語り合うようになっていて、例えば同年五月、駐清国特命全権公使となるべく赴任する送別会の折はこんな風であった。
「大鳥さん、公使就任おめでとう。あんたとは長年戦線を共に過ごした仲だが、会津の戦いは惜しかったねえ。もう少し早く山川さんが首脳部になっていたら、母成で悔しい想いをせんで済んだのになあ。な、そうだろ、山川さん。」
 山川も何が面白くないのか、藤田と共に気勢を挙げるのである。
「そうだ、そうだ。大鳥さんにもう少し兵があれば、板倉や伊地知に勝っていたはずだ。実に惜しい。そうすれば、飯盛山で有賀職之助達白虎隊の連中も死なずに済んだのだ。なあ、盛之輔君、そうは思わんか。」
「はい、そうですね。それにしても、山川さんも佐川さんが死んでから、まるでかの人が乗り移ったように良くお飲みになるようになられましたね。」
 この時盛之輔は検事正となり、子供も多数いたのだが、山川の前ではやはり緊張して酒を飲んでいたのであった。この時六女栃子が盛之輔の膝の上に乗っていて、酒を飲んで騒ぐ大の大人達を面白そうに眺めていたのである。それにしても、最初に話しかけられたはずの大鳥は、今宵の主役で有るにも関わらず話に加われず、渋い顔をして酒を飲んでいたのだった。この時、藤田の欲求不満は爆発寸前だったのである。
 同年十月十八日午後四時十分頃、井上馨に替わって外務大臣となった大隈重信は、この時参朝の帰途であったのである。犯人来島恒喜は条約改正反対を叫びながら、彼に爆裂弾を投げつけたのであった。得能閑次郎はこれを叩き落としたのだが、咄嗟のことでそれは不十分で、爆裂弾は直撃がならずとも爆発し、大隈外相の右足を吹き飛ばしてしまったのである。犯人来島は藤田五郎が素早く捕捉しようとしたが、それよりも速く、来島は自らの手にした刀で喉を裂いて自殺してしまったのだ。一方、古閑の手によって大隈大臣は病院にすぐ運ばれたのである。室田は警備の責任者として再び責任を取ることを申し出たが、彼の警備体制に不備は無く、このテロは誰が警備責任者でも起こり得たものとして、折田は再び室田の責任を不問に付したのである。その後室田は警察署長となり、要職を歴任後、大正四年、退職するのであった。因みに同僚の得能閑次郎は、森大臣暗殺の責任を感じ、明治四一年七月十七日、自ら喉を割いて自害してしまうのである。
 翌年明治二三年一月二三日、散々逃げ回っていたが、藤田五郎四三歳は再び警視庁内撃剣場にて剣道の試合をしなければならなくなってしまったのだった。相手は京橋警察署で無敵の渡辺豊氏である。この時藤田は奥義こそ使わなかったが、左片手付きで勝負を決めて勝利し、もう少しで相手の渡辺氏に大怪我をさせる所であった。室田もこの月の三十一日付けで出世して密偵の現場からいなくなり、彼を押さえつける上司はいなくなってしまうことが決まっていたのである。
 明治二四年四月二日、とうとう藤田五郎の欲求不満は、現実のものとなったのであった。その日彼は巡査服を脱ぎ捨てて、予め用意していたらしい普段着の着物に着替えを済ませ、珍しく古(こ)閑(が)?(たん)次(じ)と共に早く帰って来て、驚く時尾にこう宣言したのである。
「時尾、俺はついに今日、ここにいる古閑さんと共に警視庁に辞表を叩きつけて来たぞ。次の職は君の義弟の盛之輔君が、月俸十二円で東京高等師範学校付属東京博物館守衛長に推薦してくれたんだ。この学校の校長は、時尾のいとこの高嶺秀夫さんがやっておる。因みに古閑君は、消防署長だ。これで人斬りの生活ともおさらばだな。ついにわしはやったぞ。」
 時尾には、五郎が何を不満で長年務めた職場を働き盛りの四四歳で辞してこんなにも喜んでいるのか、いまいち把握出来兼ねたが、収入は減ることを覚悟し、この先この家で下宿でもやろうか、と考えていたのであった。