永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
同僚の得能にそんなことを言われ、先程考えていたことを見抜かれていたようで、自分が読心術を会得しているだけに、どう返事をして良いか分からない藤田なのであった。そして以前から感じ始めていた自らの罪深さを、思い知らされていたのである。もしこれが得能では無く、自分が賊と面していたらどうなっていただろう、生きて捕縛するどころか、全員斬り捨てていたのではないか、と。
得能とそんなことがあった後、藤田はこの年の六月、警視庁で行われた武術大会において、やそとの子四郎が講道館柔道の代表として、他柔術諸派と対決することとなったのである。四郎について無関心を装っていた藤田であったが、この時ばかりは他の署員の観客に交じって、四郎に声援を送ったのであった。結果は講道館側の圧勝で特に四郎は、参ったしない対戦相手の楊心流戸塚派の昭(しょう)島(じま)太(た)郎(ろう)を不具者にしてまで勝利したのである。この日の試合は流派存亡の戦いで、死合の色合いが強く、また当時はまだ一本の制度が無く、当人達が望みさえすれば、試合は延々と死ぬまで行われていたのだった。四郎の戦う姿はまるで自分が戦っている時のようで、
「血は争えんな。」
と、彼は思わず漏らしてしまうのである。本来なら試合の終わった四郎の元に駆け寄って、その勝利を祝福しなければいけない所だ。四郎も警視庁に藤田が在籍していることを知っているので、密かに見に来ているかもしれないと期待してか、試合終了の礼を済ませてから、辺りを見回しているようである。しかし五郎はそれを知りながら、黙ってその場を離れたのであった。
「俺は今まで、あんな風に容赦なく、相手を叩きのめしていたのか。」
と思い知らされ、暗澹たる気持ちに苛まされ、とても親子の再会劇を演じる気にはなれなかったのである。四郎とはそれ以降、二度と会うこと無かったのであった。
同年七月一日四四歳の時、待望の三男、龍雄が誕生したのである。四四歳の時の子供は昔も例が無いけではないが、夫婦の仲睦まじさを示す良いエピソードと思われよう。ただ翌年、五郎はこの龍雄を、時尾の親戚の沼沢出雲の養子としてしまったのである。沼沢出雲とは旧会津藩家老格の者で、跡取りがいない為、既に男の子の二人いる藤田家に白羽の矢が立ってしまったのだ。ただ昔はこう云った養子にあまり抵抗は無く、かえって物心が付かない内に養子に出してしまうことを由としたものなのである。ただ五郎は、罪深い自らに子宝がこれ以上恵まれることを恥じ、贖罪の意味を込めて、その権利の無い自分に代わってこの喜びを他人にも分け与えたく思ったのかもしれない。ただ、龍雄は後年大学時代にこの事実を聞かされ、涙したという。またそれ以降実父への思いは強くなり、胃弱の五郎の為に、胃に良い百合根をたくさん送ったと伝えられているのだった。
同月十九日九時十五分、藤田五郎とは講武場の道場で出会い、その後も共に新永井十訣になるなど縁の深かった山岡鉄太郎(鉄舟)が、死んだのである。西南戦争の後宮中に戻った山岡は、そこを辞した後、東京の谷中に普門山全生庵を建立し、維新に殉じた人々の菩提を弔ったのであった。 これは藤田も見習うべき生き方でもある。彼の死因は胃癌で、かつて務めていた皇居に向かって結(けっ)跏(か)趺(ふ)座(ざ)(禅の座り方)をして絶命したと云う。
明治二二年二月十一日紀元節、憲法発布の日、東京は一面雪が降り、大都会は銀世界に変貌しつつあったのである。この時密偵主任室(むろ)田(た)景(かげ)辰(とき)は、命を狙われていると言われていた時の文部大臣森有礼氏の守衛掛かりを仰せつかり、森邸から皇居に至る道に巡査(羅卒と云う呼び名は評判が悪く、すぐに変えられた)を配備して、警戒に当たっていたのだった。このような要人警護が重視されるようになったのは、西南戦争終結の一年後の明治十一年五月十四日、内務卿兼参議独裁者大久保利通が暗殺されたことを切っ掛けとしていたのかもしれない。彼がもし少し身辺警護に気を配ってさえいたら、と云う反省に基づいているのだ。当然その中に藤田五郎もいて、前日玄関を守っていた巡査服姿の彼は、偶然森大臣と話をする機会があったのである。それは前日から降り始めた玄関の御影石に大臣がすべって転びかかり、それを藤田が支えた時であった。その時、大臣の胸元から、光るクルス(十字架)がこぼれ落ちたのである。その時藤田は、思わずこう言ってしまったのであった。
「大臣閣下は、耶蘇教なのでありますか。」
「ほう、君はわしがキリスト教徒であると云う有名な話を知らなかったのかね。わしが命を狙われているのも、半分はその所為だと云うのに。」
「はっ、存じ上げませんで、失礼致しました。ただ以前耶蘇教のフリーメイソンとか云う者達と命のやり取りを致したことがございまして、そのことをふと思い出して、つい大臣閣下に話しかけてしまったのであります。御無礼をどうぞお許し下さい。」
森は柔和な笑みを浮かべ、こう答えたのである。
「はっはっはっはっはっ。わしもそのフリーメイソンじゃよ。君に斬られてしまうのかな。」
「失礼致しました。フリーメイソンの信者が全て私の敵ではないことは存じ上げております。」
「そうか、それで安心した。君に命を狙われたら、助かりそうも無いからね。それに、日本でも古くからキリスト教が伝わっていたそうだよ。秦氏と云うのも、その一族だそうだ。」
「はっ左様なのですか。あの坂本龍馬も、私の旧主の永井様もそして私自身も秦氏なのだそうです。それにしても秦氏とフリーメイソンがお仲間だと云うなら、私は知らない内に、同士討ちをしていたことになってしまうかと思われます。」
「ほう、良く知っておるね。死んだ坂本君は確かにフリーメイソンだったと僕も聞いたことがあるよ。それに永井と云う姓なら確かに秦氏だろうしね。君も秦氏とは驚いた。僕は秦氏のことを個人的に調べているイギリス人(ノーマンマクレオドのこと)とも知り合いでね。」
「そうですか、お忙しい所、お手間を取らせて申し訳ありませんでした。楽しいお話、ありがとうございます。私、藤田と申します。」
「そうか、藤田君、また会って、ゆっくり話をしようじゃないか。」
そう言って、森大臣は屋敷の中に消えて行き、思えばこれが、藤田の見た森の最期の姿であった。
森大臣が命を狙われていたのは、彼が伊勢神宮参拝の折、本殿の入り口に掛けられていた御簾を、手にしていたステッキで掲げた、と云う誤報が新聞に載ってしまったからなのである。全国の愛国者達が、彼を不敬として天誅を与えるべきと命を狙っていたのであった。午前七時五十分、そんな彼の所に同邸に詰めていた警部の由国祐信から、次のような報告を受けたのである。
「西野文太郎と云う者が、森大臣暗殺の企ての密告を申しに、ここにやってきています。今応接室に控えさせていますが、いかが致しましょう。」
驚いた室田は、早速西野と応対したのであった。この時西野が言うことには、
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊