永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
と、実父の自分を想いやる心を知り、篠原から吹き込まれていた冷たい人斬りの父の虚像は消え、四郎の頑なな憎しみの心は氷解したのであった。その後二人は講道館の嘉納治五郎の元に行き、頼母からの紹介状を見せて四郎をお願いしたのである。 むろん、柔術の猛者の入門を求めていた嘉納は、一も二も無くそれを承諾したのであった。こうして四郎は柔道の世界に入り、講道館四天王として名を馳せるのである。五郎はこのことを時尾には何も語らず、その日何があったのか、時尾もまた敢えて尋ねようとはしなかった。夫が何も言わないのは、それだけの訳があると信じていたのである。ただ五郎は、時尾の手造りのやその位牌にだけは、手を合わせて報告したのであった。
「やそ、四郎が見付かったぞ。元気にやっているようだ。安心しろ。篠原の企みで危ない所だったが、俺と同じ人斬りには絶対にさせん。もはや父の元を巣立ち、俺は必要ないようだ。」
第五場 護衛
ところで、明治九年に廃刀令が確定したのを象徴的な出来事として、全国の剣客達は路頭に迷っていたのである。西南戦争の抜刀隊は、いわば彼らの最期の花道でもあったろう。こうした状況は江戸幕府が始まって太平の世になった時もあり、その時は剣豪達が蝦蟇の油を売ったりして糊口を凌いだのだが、もうその職業の需要に江戸では限界が来ていたのだった。そこで全国の剣客の代表とも目されていた榊原謙吉は、そうした猛者達を集め、その試合を見せて興行を行うこととしたのである。これを「撃剣興行」と呼び、明治六年から始められていたのであった。榊原の弟子でもあった富山円(まどか)は、これを警視庁でも行ってみようと思ったのである。富山の考えに警視庁の上から下まで賛同し、藤田五郎が元新撰組の斎藤一であることを知っている警察幹部達も、富山を使ってその伝説の妙技を見てみたい、と云う欲望にもかられてしまったのである。
かくして明治十五年十一月二六日、富山と嫌がる藤田五郎との公開試合が企画されたのだった。藤田三九歳、富山三二歳の時のことである。だいたい藤田は警視庁剣道場で真面目にやる気は無く、等級でも四級止まりで、それ以上の昇級試験を受けようとはしなかったのだった。要するにそれ以上の級、例えば師範の権利がある二級などに受かってしまうと、剣を教える立場になってしまい、気楽に剣を振るうことが出来なくなってしまうと考えたのである。しかし、警視庁の上から下までが見守る中、仲間の富山を打ち据える気になど成れない。試合が始まると、剣道着の富山は得意の居合を応用した鋭い攻撃を仕掛けてくる。同様に剣道着の藤田はことごとくそれをよけ、角に追い込まれる度に身体をひらりと翻し、とうとう時間一杯それが続いて、試合は引き分けに終わったのである。
明治十七年二月二八日小石川の保科邸で、かつて時尾が仕えた照姫が、五五歳で静かに死去したと、人づてに時尾と五郎は聞いたのであった。
「あのお気が強く、誰にも優しい姫様がねえ。時は本当に無常ですわ。」
と溜息を付く時尾なのである。
明治十八年、内閣制度が制定され、初代内閣総理大臣に、かつて井上聞多と共に黙示録の十二使徒を指揮した伊藤俊輔こと伊藤博文がなったのだった。また同じ年、時の文部大臣森有礼の命により、山川浩は陸軍に在籍したまま、東京高等師範学校及び付属学校の校長となるが、因みにこの学校は、後に藤田五郎が守衛長を務める所なのである。
ところで、藤田五郎の密偵のお役目のメンバーは多少の入れ替えはあるものの、主だった者はまとめ役が室(むろ)田(た)景(かげ)辰(とき)と云う者で、藤田の同僚が古(こ)閑(が)?(たん)次(じ)、得(とく)能(のう)関(かん)四(し)郎(ろう)と云う名であった。得能は榊原謙吉の直接の門下ではないが、やはり直心影流の達人で、藤田とは違い、警視庁剣道の等級も二級を取得して、剣道師範の資格を持っていたのである。彼ら密偵の親玉は、薩摩の川(かわ)路(じ)利(とし)良(よし)であった。川路は大警視と云う初代警視総監とも云うべき地位にあり、伊東博文の薦めもあって、密偵を多く使ったので有名な人物である。彼は現在の地位に就く前の戊辰戦争時代から密偵の仕事に個人的に興味があり、藤田五郎のことも斎藤一時代から山口次郎のまでも注目していたのだ。そして、もしも将来彼と共に仕事をするようなことがあったら、密偵の仕事をさせてやろうと長年心に秘めていたのである。藤田の警視庁奉職は、彼にとって待ってましたと云った所だったのであろう。また他のメンバーも、彼が選りすぐった者達だったのである。その川路は、明治十二年既に他界していたのだが、しかし彼が選んだ密偵組織は、室田を中心に生き続けたのであった。
藤田は彼らと共に町に、当然巡回や探索に出なければならなかった。しかし、探索の役目の時は私服で、刀を持つことが出来ず、代わりに短銃を装備していたのである。藤田は刀を手放すことを嫌い、出来るだけ探索の仕事は避けてきたが、密偵が探索をしないのでは許されない。止むを得ず探索に出て刀を置いてゆかねばならない時は、代わりに銃では無く古道具屋で手に入れた十手を腰に挿すことにしていたのである。
これはそんな時の話であった。その日彼は、木枯らしの吹きすさぶ深夜、巡査服姿で帰宅しようと道を急いでいたのである。その時、藤田の脳裏に突如憎しみの籠った想念が入り込んで来たのであった。
『おのれ、斎藤一、このライフルロケットで今度こそ、安富(やすとみ)才(さい)輔(すけ)同様お前自身の息の根を止めてくれる。』
藤田は咄嗟の判断で、
『無外真伝剣法最終則、万法帰一刀。』
と心の中で呟き、その結果すぐさま次の奥義、
『無外真伝剣六則、鳥王剣。』
と呟き、夜空に退避したのである。その途端、賊の持っていた新兵器ライフルロケットが火を噴いたのだった。狙ったのは秦(篠原)泰之進と加納鷲雄、その友人の三井牛之助や前野五郎であったのである。秦之進の使ったライフルロケットとは火箭砲と訳され、現代の小型ミサイルとでも言えるだろうか。彼は所属する久留米藩主の命令でこれの試射を行っていたのである。篠原はライフルを撃ったものの、その場に誰もいないことに驚き、同士三人と共に出て来て、覆面を自ら剥ぎ取って辺りを見回したのであった。藤田はその時、夜空から急降下してこう叫んだのである。
「無外真伝剣法三則、玄夜刀。」
藤田が既に抜いていた十手が光り輝き、秦之進らはこれに驚き、再び弾を装填していたライフルを撃ち放して、一目散に逃げてしまったのだ。得物を持たない藤田は、それ以上彼らを追うことを諦めたのである。彼が簡単に追跡を断念したのは、秦之進らが単に御陵衛士以来の恨みのために自分を狙っていると思ったからで、もしもやそ凌辱の犯行が彼らのものであると知っていたなら、こんなものでは済まなかっただろう。藤田には読心術の力も有ったが、それは相手がそのことを強く念じている時に限るのであって、皮肉なことに秦之進らが薄情にもやそへやったことを忘れ果ててしまっていることが、藤田に犯行を悟らせなかったのである。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊