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永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)

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 とは言うものの、豊後口の戦争はこうして味方の大勝利に終わったのである。藤田らは治療のため後方に回され、その折熊本城に立ち寄ったのだった。二月二十日から約二カ月間、熊本城を死守した司令官を拝もうと思ったのである。その時点で誰が司令官なのかは知らなかったが、熊本城まで行くと、たまたま出て来たのがその司令官の谷干城少将その人なのであった。かの人は過ぐる日、下総(今の千葉県)流山で投降してきた近藤勇を、坂本龍馬暗殺の私怨を持って処刑した土佐の責任者だったのである。その周りには、後に日清日露戦争で大活躍する当時中佐の樺山資紀や少佐の児玉源太郎、川上総六、奥保鞏(おくやすかた)が固めていたのであった。考えてみれば、この時熊本城にはこう云った面々が谷司令官を中心に当時いたのだから、城が落ちなかったのも当然のことだったのかもしれないのである。
 軍務で部下と共に出て来た谷は、明治政府軍の軍服を着ながら、銃では無く刀を持った藤田を見て、それが通称抜刀隊の格好であることに気付き、上機嫌で近付いて来たのであった。
「そこにいるのは、抜刀隊の負傷兵では無いかね。私は君らの犠牲の上に、我が熊本城も守られたと認識している。どうか私と握手してくれんか。」    
 そう言って谷が藤田に近付いてくると、藤田は不自由な足を押して、富山の力を借りて立ち上がったのである。そして谷が差し出す右手に、自分の右手を差し出し、左手は自らの軍刀(鬼切丸)の柄を握り締め、心の中でこう考えていたのだった。
『こいつが局長を死に至らしめた土佐の首魁か。わしは本来左利きゆえ、今ならこ奴を斬れる。』
 しかし、こうもまた考えていたのである。
『今こ奴を斬ることは出来よう。だがこの足では逃げ切れまい。新永井十訣もまた、ここで絶滅させられよう。』
 その時、藤田の脳裏に時尾と勉の幼い顔が浮かんだのだった。その幻に悩まされ、ついに藤田は千載一遇の好機を逃してしまったのである。谷は、握手をしたまま何も話さない彼を怪しく思い、お供の名将たちと共にその場を離れてしまったのだった。
 その場でまだ呆然としている藤田の肩を、口の利けぬ漢升がポンッと叩いたのである。彼はそれで我に返り、黙って彼に笑い掛け、また彼の心は、この時こう語っていたのであった。
『藤田、良く堪えた。』
 こうして三人欠けた新永井十訣の面々は、足を負傷した藤田を東京へと運んだのである。ただ漢升は、途中に寄港した神戸港で降り、戦死した三名の遺骨を加納へと運ぶ役を買って出てくれたのであった。別れ際に彼は、藤田の心の中に、こんなことを語っていったのである。
『ところで私は、この戦争を境に完全に永井十訣を辞め、漢升と名乗るのも止め、元の吉田勝見に戻り、剣の道に生きようと思う。』
 こうして漢升はその後吉田勝見と云う名に戻り、京の武徳会に参加して、剣豪としてその名を歴史に残すこととなるのであった。
 船が横浜港へ着き、藤田を本郷真砂町の自宅まで送ると、時尾はそれで帰ろうとした一同を引きとめたのだが、彼らはそれを固辞してそれぞれの帰るべき所へと帰ったのである。富山は警視庁へ報告に帰り、西郷こと保科頼母は伊豆の謹申学舎塾を辞して宮司として務めていた福島県の都(つ)々(つ)古(こ)別(わけ)神社へ帰ったのだった。しかし、硝煙立ち昇る彼の帰還に、日頃から西南戦争の首謀者西郷隆盛と縁続きで交流があることから咎められ、その職を解任されてしまったのである。彼の弁明も聞いてもらえず、就職先を追われた頼母親子は艱難辛苦の末、病弱だった吉十郎をついに失ってしまうのであった。傷心した彼は一人暮らしが耐えられず、会津藩士志賀貞二郎の三男四郎として預けていた妾腹の我が子を取り戻そうと考えたのである。当時四郎は、養父の志賀と共に新潟県津川(現在の阿賀町)に疎開していたのだった。そして、世間体を気にして養子として引き取ったのである。この四郎と云う養子について後々問題になって来るので、読者は記憶しておいて欲しい。
 さらに榊原謙吉は、東京車坂の道場に戻るのだが、ずっと後に藤田五郎の人生に間接的に関わって来るのである。山岡鉄太郎(鉄舟)は宮中に戻り、西郷贔屓の陛下に不在の理由を言わずにそれを許してくれたことを謝し、務めを続け、要職を歴任することとなるのだった。彼は戦友と別れる時、こんなことを言っていたのだった。
 「いやー、こんなことを言っては亡くなった者に不謹慎かもしれんが、文字通り宮仕えなど慣れぬことをやっていると、血生臭い戦場で命のやり取りをする緊張感は堪らぬものでござった。またこのような機会があれば、是非誘って下され。」
 第四場 西郷四郎
 明治十年十月二八日に帰還した藤田は、警部補から警部試補、最終的には警部となったのだが、足のため療養生活を余儀なくされ、しばらくは時尾と息子の勉との水入らずの生活となったのである。その結果、明治十二年十月四日、次男剛が生まれたのだった。良いことは続くもので、次男の誕生後四日目に、彼は西南戦争での活躍を認められ、青色桐葉章と金百円を下賜された上、叙勲七等を授与されるのであった。
 東京に戻って来ると、藤田は古閑?次(こがたんじ)のいる密偵職に戻ったのである。密偵と言っても、腕の立つ彼は要人の護衛の役割をすることが多く、密偵の任務が無い時は、警視庁剣道部の臨時師範の役をしていたのだった。密偵の仕事は暇なわけではなく、警視庁の道場にはほとんど行けなかったが、たまに顔を出すと、次から次へと挑戦者が彼に挑んできたのであった。この時の藤田の利き手は新撰組時代のように右手では無い。誰憚ること無く左手を使い、奥義はさすがに使わなかったが、左手で本気で相手をしたのである。もっとも当時の警視庁剣道部は、戦争で職も必要性も無くなった全国の剣客達が集い、藤田も何の遠慮も無く、その腕を発揮できたのである。しかしその結果が凄かった。当時の剣道は荒っぽく、竹刀を互いに会わせて鍛錬するようなことは無く、練習イコール試合の様なものである。藤田はまるで相手の剣を嫌うかのように、竹刀の合わさる音すら立てず、相手をねじ伏せ続けたのだった。その結果、とうとう彼がたまに道場を覗いても、彼の相手をするのは富山円位になってしまったのである。もちろん富山も、竹刀をあわせる音さえ出してもらえなかったのだった。強い、強い、まるで次元の違う強さだったのである。
 明治十五年一月二日の午後、一人の背の低い男が東京を訪れたのだった。彼の名は西郷四郎。前述したように、頼母の養子と称している実子であった。彼は東京に入ってから、まっすぐに藤田五郎の住む本郷真砂町へとやって来たのである。その出迎えには時尾が出たのであった。
「まあ、御家老様の御子息様でいらっしゃいますか。良くおいで下さいました。確かお名は、吉十郎様とおっしゃいましたね。」
 四郎は、父親からの紹介状を時尾に渡しながらこう言ったのである。