永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
しかし明治十年二月十七日、ついに西郷隆盛が西南戦争を起こし、会津での雪辱を果たす絶好の機会が訪れ、同月二十日、藤田は進んで警視庁に入って警部補となったのである。かつて新撰組に入る時、流派を『一刀流』と言って誤魔化した彼も、今回の警視庁に入る時の履歴書では、堂々と『無外流』と書いたのであった。この時永井の指示で、以前彼の所で紹介された古閑?次(こがたんじ)も共に就職することとなったのである。密かに密偵の役も仰せつかったのだが、藤田だけはその腕を買われ、密偵では無く萩原警視徴募隊、後には通称抜刀隊に所属したのだった。すると、富山円と云う無外流の者が藤田に近付いてきたのである。富山は播磨で無外流を習い、現在はかつて講武場でやりあった榊原謙吉の直心影流である。富山もかつての永井三十忍の生き残りの一人であり、誠に心強い限りである。なお藤田は後から警視庁に入ったため、親しい佐川官兵衛は既に九州へ赴いていたのだった。藤田の所属した抜刀隊とは、高杉晋作の後を継いで奇兵隊隊長となった山形有朋の考えたものであった。当時新政府が実施していた徴兵制で急遽集められた庶民の兵が、新式銃を持ちながら、『あっちは刀を持ってるから勝てるわけがない』などと言い訳を言って苦戦していたのに対し、会津武士達を使って対抗しようと云うものだったのである。しかしあくまで徴兵制に拘る山形は、元武士達に銃器を持たせず刀のみの装備として抜刀隊とし、彼らが活躍しても徴兵制不要論へとならないように配慮したものであった。この結果、第一次抜刀隊を含めて佐川達は全滅し、不死身の官兵衛もついに命尽きてしまったのである。これを藤田達は九州へ向かう途中で聞いたのだが、彼ら萩原警視徴募隊の後ろには、藤田を守る謎の一団が付き従っていたのであった。五月十八日、藤田は富山と共に改めて抜刀隊に任命され、正式名称豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長に任命されて横浜港を出陣したのである。この時同じく永井三十忍の古閑?次(こがたんじ)は、密偵として別行動であった。二一日藤田らは佐賀関港に入り、そこで岡城攻略の軍の一角を担い、法師山攻撃を担当したのである。しかしここでの激しい戦いのため、山は占拠したものの富山以外は皆戦死してしまい、どうしたものか二人で困ってしまったのである。すると常に藤田を守って後ろからついて来ていた一団が姿を現したのであった。その一団のメンバーは永井十訣の生き残りの漢升、永井十訣の生き残り田中律造と清水宇吉、かつて講武場で知り合った剣客の榊原謙吉と山岡鉄太郎と小野田東市、そして藤田の師である保科(西郷)頼母であった。漢升は綺麗さっぱりと長い髭を剃って三戦して来たのである。藤田はその変貌振りに驚き、思わずその心の中にこう囁いたのであった。
『漢升殿、随分若返りましたなあ。』
漢升はその言葉に対し、何も答えずにただ笑っているだけだったのである。
また頼母の息子の吉十郎は、持病の労咳のため不参加だったのであった。頼母は隆盛と縁続きで交流もあったため、ここに参加するのはためらいもあったが、会津戦での仇が堂々を討てると云う目的の誘惑に勝てなかったのである。また、愛弟子の藤田五郎を助けたい一心でもあったのだ。因みにかつて講武場にいた剣豪の中にいた男谷信友(精一郎)、三橋虎蔵、勝海舟(麟太郎)は不参加である。男谷、三橋は既に鬼籍に入り、勝は年齢的なこともあるが、高官となって剣士には戻れなくなってしまっていて、しかも西郷隆盛とは親交があり、面と向かって戦いたくは無かったのであった。そこへ密偵を務めていた古閑?次(こがたんじ)も一行に合流して来て、藤田に向かってこう言ったのである。
「富山君と私を併せて新永井十訣ですな。」
もはや永井の殿様は関係無かった。永井尚志は、遠い江戸で天下とは関係なく活動している。彼らは死んだ兵達の洋式軍服を盗み、自分達で政府軍になりすましてしまったのであった。藤田は半隊長であったから、半隊は五人なのでいささか人数が多かったのだが、軍の上部の者が点呼する時は、田中律造、清水宇吉、古閑?次、小野田東市だけになって誤魔化したのである。続けて西郷軍は、法師山奪還を目指し、総攻撃を仕掛けて来たのだが、友軍が応戦している間に身の軽い彼らは敵の背後に回り、十人で西郷軍に総攻撃を掛けたのであった。まず藤田が頼母と共に先頭に立ち、
「無外真伝剣法四則、『神明剣』。」
と叫び、二人で大砲の如き火柱を討ちこんだのである。頼母の手にしてい
たのは、脇差であったが、この技の威力は刀の長さとは関係なかったので
ある。また西郷軍には本当の大砲も一門有ったのだが、とても神明剣の打
ち出す速さには敵わなかったのだ。さらにそれが打ち終わると、頼母はボ
ロボロになった脇差を放り投げると、すらりと長差しを抜いて、藤田と共
に縮地の法で敵陣に飛び込んだのであった。そして二人同時に、
「無外真伝剣法五則、『虎乱入』」
と叫び、藤田は二刀で、頼母は一刀で斬りまくったのである。さらに後方
では漢升が例によって弓矢を放って援護し、残りのメンバーも斬り込んで
きたのだった。十人の中で唯一髷を結ったままの榊原謙吉はもう老人と言
っても良い年齢でしかも小兵だったが、丸太棒のような腕で銃で身を守ろ
うとする敵兵を、それごと両断したのである。そして、こう見得をきった
のであった。
「新永井十訣見参! 命の惜しくない者は前に出よ。」
一方大柄な山岡鉄太郎は彼独特の短い刀で奮闘し、小野田東市は天然理心流独特の太い刀を持って、両手平突きをもって暴れまわっていた。田中律造と清水宇吉と古閑?次は、敵の銃撃をひょいひょいと器用によけながら、確実に一人また一人と敵を倒していくのである。富山円は、軍刀を腰に下げ、得意の居合で発ちふさがる敵を一瞬にして横断していたのだった。気付くと敵兵は皆倒れており、味方大勝利で、砲台を奪われて敵は総退却したのである。
この時田中律造は珍しく興奮し、逃げていく敵目掛けて拳を振り上げ、こう絶叫したのであった。
「新永井十訣、大勝利。えい、えい、おー。」
すると残りに九人もこれに呼応し、
「えい、えい、おー。」
と絶叫したのである。藤田五郎もまた、力一杯叫
んだのであった。
六月二十九日、目標の岡城を攻略。その後一旦後ろの備えに回されて一休みした後、各地を転戦。轟峠で再び敵主力と交戦。再び砲台を一つ奪ったものの、自分達以外の味方も全滅しており、仕方なく漢升と山岡に大砲を持ってもらい、それを戦利品としてその場を退却したのである。
しかし良いことは長くは続かなかった。七月十二日、味方の集結を待って再び轟峠を、藤田二番小隊こと新永井十訣を先駆けとして総攻撃したのである。たまらず逃げる敵を追って、焼尾峠、高床山に迫ったが、ここで調子に乗っていた二番小隊の長藤田が、敵の流れ弾に当たって足を負傷しのだった。それを救おうとした田中律造、清水宇吉、小野田東市が敵銃弾に倒れ、戦死したのである。足を負傷した藤田を漢升がおぶって、佐伯城下の代に大日寺大包帯所に運び、またこの時古閑?次は密偵の任務に戻るべく、一同から離れたのだった。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊