永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
佐川が去ると、二人は何となく気まずくなってしまい、黙ったまま寝具の前に正座していたのである。二人の格好は容保公の屋敷でのままであった。五郎は黒い永井十訣の戦闘用の着物のままの上旅装も解かず、時尾は白無垢の姿のまま、宿の一室で向かい合っていたのである。そして二人同時に、こう言ったのだった。
「あの。」
言葉が重なってしまい、二人は遠慮し合ったのである。
「時尾殿、お先にどうぞ。」
「いえ、五郎様からお先に。」
「おっ、一(はじめ)と言わなくなったな。」
「はい。いつまでも一様ではいけないと思いまして。何しろ私は、大殿様と若殿様のお前で、藤田五郎様と結ばれたのですから。」
「そうか、では時尾。私から申そう。」
「はい。」
「実は拙者は婚礼を挙げるために上京したのではないのだ。明日にはここを発たねばならぬ故、その積りで山口家で待っておれ。高木家でも良いのだぞ。」
「はい、畏まりました。して何処へ?」
「うむ。実は伊豆であの西郷頼母殿が、保科頼母と名を変えて私塾を営んでおられるそうだ。あの方はこの世で唯一私に完勝した方で、その勝負の直後の折の約定で、わしを破った技を伝授してもらうこととなっておる。この機会しかないと思うのだ。何年かかるか分からぬが、頼母殿の元で修行してゆこうと思う。そなたにはしばらく寂しい思いをさせるかと思うが、許してくれ。で、そなたからの話とは何なのだ?」
「はい。」
と言ったものの、しばらく黙ったままなのであった。五郎は彼女を急かさず、根気良く口が再び開かれるのを待っていたのである。やがて、彼女の思い口が開かれる時が来たのであった。
「あの、私は男と女のことはまるで経験がございませんし、知識もありません。今夜は五郎様に不束な所を見せざるを得ないかと思いますが、どうかご容赦下さいませ。」
見ると、行燈の薄明かりの中でさえはっきり分かるほど、彼女は赤面していたのである。例によってそういうことにまるで頓着の無い五郎は、こんな風に答えたのだった。
「御安心召されえ。拙者かつて吉原で修業を積んだ芳に教えを受け申した。万事拙者に任せて下され。」
「はい、畏まりました。」
と思わず言ってしまったのである。何か変だな、と思っていたものの、それが何かははっきりせぬまま、二人の夜は静かに更けていったのであった。
翌朝、良く眠っている時尾を宿に一人残し、五郎は一人支度をして先に出ようとすると、草鞋を履いている所へ背中に気配がし、振り向くと長襦袢を身に付けた時尾が正座していたのである。
「いや、やはり起こしてしまったかな。済まなかった。」
「いえ、私こそ旦那様がお出かけになると云うのに、寝ていてしまって失礼いたしました。もうお発ちになるのでしたら、これを…。」
そう言って時尾が差し出したのは、昨日の祝言の祝儀をまとめたものと握り飯らしかった。
「有り難いが、時尾はこれが無くては困るのではないか。」
「いえ、私は私で何とか致します。それよりこれから何年も掛かって修行なさるなら、相手方へのお礼も必要でしょうし、第一滞在費が入り用となりましょう。お足はいくらあっても邪魔には成らぬかと存じます。」
「そうか。時尾にはいきなり苦労かけるなあ。ではさらば。」
「承知致しました。道中御無事で。」
と言ってから時尾に見送られ、五郎は一人伊豆の松崎へと旅立ったのである。
第二場 伊豆
江戸から伊豆松崎までの道のりは、まず箱根の山を越え、下田まで行って、そこから船に乗り、下船してから徒歩で行くしかなく、相当大変な旅であった。それでも健脚の藤田は早朝に江戸を出てから、次の日の午後には目的地である松崎の江奈村の謹申学舎に到着したのである。謹申学舎は、当地の名士の依田佐二平が明治五年自宅を改造して作った教育施設で、西郷こと保科頼母を校長に迎え、漢学や洋学を地元の青年に教えていたのだった。江奈村は山里とは言っても海も近く、風光明媚な所である。藤田がここに着いた時、ちょうど学校が終わって、学生達を頼母親子が送り出している所であった。彼は旅姿でこちらに近づいてくる藤田をすぐに気付き、親子で手を振って歓待したのである。
「おう山口君(藤田の旧姓)、よく来てくれたなあ。
息子とは初めてだろう。これは息子の吉十郎だ。よろしく頼む。もしかしたら、君は明治になったのを機にまた名を変えたではないか。因みに私も、保科頼母と名を変えたんだよ。」
そう父に紹介されて挨拶をした初見の頼母の息子吉十郎は、父と共に会津から箱館へと戦線を動いたとは思えぬほど色が白く、小柄で痩せた青年であった。藤田は差し料の『池田鬼神丸国重』に模した『鬼切丸』を腰から抜いてしゃがみ込み、刀を前に置いてこう口上を述べたのである。
「御家老様、お久し振りにございます。吉十郎様、お初にお目に掛かります。御意の通り名を変えまして、今は藤田五郎と申します。以後、そうお呼び下さい。」
頼母親子も直接地べたに膝を付き、正座をしてこう答えたのである。
「おうそうか、藤田五郎と名を変えたか。会津藩
士らしい名じゃのう。ところで今日はこんな田舎まで何だ。本当に約束通りわしの技を教わりに来たのかね。」
「はい、その積りで参りました。これはそれに掛かる経費でございます。お収め下さい。」
「ははあ、驚いたな。君の口から経費なんて言葉が出るなんて恐れ入った。さしづめ細君の入れ知恵であろう。」
「はい、お察しの通りにございます。」
と藤田が悪びれもせずに答えたので、頼母はおかしそうに笑ったのであった。
「は、は、は、は、は。そうじゃろう、そうじゃろう。どうも君の発想では無いと思うたよ。ところでやそ殿は息災かな。」
それを聞いた藤田は、無意識の内に顔を曇らせながらこう答えたのであった。
「いえ、やそは亡くなりました。今妻と言ったのは、後妻の時尾のことでございます。」
「おお、そうであったか。これは悪いことを聞いたかな。それにしてもあの照姫付きの祐筆の時尾が後妻とはな。主らいつの間にそんな仲になったのじゃ。」
「はい、先日容保様の媒酌で祝言を挙げさせていただきました。」
「そうか、殿ののう。会津での主の活躍振りが余程頭に残っているのであろう。さもありなん。ところで藤田、奥義の伝授のことだが、主はこれ以上強くなってどうする積りなのじゃ。」
「はい、この度の戊辰戦争を通じて思ったのですが、私の技量では、まだまだ近代兵器には太刀打ち出来ません。今後あるであろう連発銃との決戦に備え、出来ればそれに刀で勝つ術を、無外流奥義の上に頼母様の技を伝授していただいて身に付けとうございます。」
「そうか、早速それでは今から始めよう。ついては一つ主と交換条件がある。」
「拙者の出来る事なら、何なりとお申し付け下さい。」
「主の無外流奥義も、わしらに伝授してはくれまいか。」
「はい、喜んで。頼母様達なら、きっと気功の量も十分かと思われます。」
「そうか。そりゃいい。夕餉前に一汗かこうか。まずはそちの十の奥義の型からじゃ。吉十郎、学校から竹刀を三本持って参れ。」
「はい。」
と言って青年は、建物の中に入って行ったのだった。それを見送った二人は、まず頼母の方から話し始めたのである。
「ところで藤田。」
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊