小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)

INDEX|53ページ/67ページ|

次のページ前のページ
 

「実はな。わしがこちらにお邪魔したのは、五稜郭で土方さんが戦死した後、島田達新撰組の残党をまとめ、その助命をしてくれたのが他ならぬ永井さんだと聞いてな。今日は願いごとにやってきたのだ。斎藤(永倉にしてみれば、藤田はこの姓なのである)、お前も近藤局長の首を取りかえして来てくれたそうだが、わしは此処江戸の板橋に、新撰組の名誉挽回のために慰霊碑を建てようと思ってな。近藤さんと袂を別ったわしがこんなことをしているのもおかしかろうが、永井様にもその資金援助を頼みにきたのだ。どうだ、斎藤、お前も協力してくれるか。」
「分かりました、永倉さん。今は御用の途中で寄っただけなので何も出来ませんが、後日また上京した折には、必ず協力致します。」
「そうか、当てにしているぞ。」
と永倉は答えたのである。その後藤田は大鳥と再会の挨拶を交わし、藤田は田中とも清水と再会の抱擁をし合ったのだった。そして古閑とは改めて初対面の挨拶をしてから、その場は去ったのである。
 同年十月、ついに斗南県は相次ぐ財政破綻の中消滅し、他の県と合併して青森県が誕生したのだった。藤田五郎が帰国すると、時尾がどう見ても手造りと思える不格好な位牌に、『やそ』とだけ書かれた位牌を彼に差し出したのである。
「これは何ですか。」
「はい、五郎様がいない間、やそ様のご遺骸は皆で荼毘に付し、ここ(五戸)の丘に、江戸の方向に向けて木の墓をお造りしました。ただし位牌は、余裕が無くて揃えられませんでした。しかし位牌が無くては、貴方様も拝む物が無くてお寂しいと思い、こんなものをお作りしました。恥ずかしながら、それは私がお造りしました。それにもちろん戒名を入れる余裕もありませんでしたので、『やそ』とだけ書きいれました。拙いものなので、気に入らなければ結構ですので、遠慮無くそう仰って下さい。それは私がお引き取り致します。」
 五郎はその位牌と時尾をまじまじと見ながら、こう答えたのであった。
「いや、時尾殿。かたじけない。この位牌は私が喜んで頂き申す。何よりも大事に致そう。」
 明治六年、間の悪いことに大火事が起こり、五戸にあった建物は全焼し、五郎もまたやその位牌だけを持って、時尾らと共に避難したのである。そこで高木家は下北に見切りを付け、所用のある藤田を残し、この地を離れたのである。目指すのは、かつて高木家が江戸で暮していたが急いで国元に帰ったので、人手に渡さないままになっている筈の江戸の屋敷であった。とにかく五郎とは離れ離れになってしまったのである。こうしてこの間二人は、すれ違いの寂しい日々を送っていたのだった。藤田はこの後明治七年六月十日上京し、山口家に戻ったのである。久し振りの里帰りであったが、山口家にいるのは兄廣明の一家だけであった。
 さらに上京したこの日、藤田五郎は懐かしい松平容保公の東京は牛込にある寓居に尋ねたのである。当時既に許されて江戸にいた容保公の所には、側室の息子の容(かた)大(はる)や手代木直右衛門、熊本にいるはず山川浩も何故かいたのだった。容保は彼に会うなり、懐かしそうにこう言ったのである。
「山口、久し振りじゃのう。息災であったか。」
すると横にいた山川が口を挟んで来たのだった。
「殿、こちらはまた名を変えて、現在藤田五郎殿とおっしゃいます。」
「藤田とはまた、会津藩士らしい名じゃのう。気に入った。ところで藤田、私はここにいる山川から、そちについて気になる噂を先程聞いてのう。」
「はっ、何でございましょうか?」
と、五郎が昔と変わらず殿様として畏まって答えると、容保は何やら意味有り気に語り始めたのである。
「何でもお主は、少し前に内儀(妻)を亡くしたそうな。残念なことであった。」
「御意。」
「しかしその後そちの身の回りの世話を、死んだ高木の娘にさせておるそうではないか。本人達はそれでいいのかもしれんが、祝言の一つも挙げてやらなくては哀れだと、山川が話を聞いた佐川が申しておったそうだぞ。藤田、余が上仲人をして、ここにいる山川と佐川が下仲人をして取らせるから、たった今、余の目の前で高木の娘の時尾とか云う女子(おなご)と祝言をあげい。」
 この言葉にさすがの五郎も仰天して、即座にこう答えたのだった。
「しかし殿、すぐにと言われましても、時尾はここにはおりません。」 
 それを聞くと、そこにいた五人がにやりと笑い、あの生真面目な容保が吹き出しそうになるのを堪えながら、こう言ったのである。
「それはどうかな。これ佐川、連れて参れ。」
 すると奥の部屋に通じる襖が音もなく開かれたのだ。そして中から羅卒(巡査)姿の佐川官兵衛と、白い綿帽子を被り、同じ色の花嫁衣装を身に付けて頭を下げた時尾が、三つ指を付いて正座していたのである。会津の関係者である一同は、ここ数年嫌なことばっかりで、こんな目出度くて楽しい話題は、本当に久し振りのことであった。それで一同こんなにも嬉しそうににやにやしてしまったのも、無理からぬことだったろう。容保も一層にやけながら、こう宣言したのであった。
「さあ藤田、こうなったら年貢の納め時だぞ。大人しく観念して、今すぐ祝言を挙げよ。」
 見ると時尾は、いつも五郎が見るように涙を流し、こう言ったのである。
「容保様、容大様、山川様、佐川様、手代木様、本当にありがとうございました。これで、時尾の宿願が叶いましてございます。」
 藤田時尾、誕生の瞬間であった。梅雨明けの良く晴れた日のことである。















第四幕 明治  第一場 東京
 明治七年六月七日、藤田五郎と時尾は結ばれ、礼を言って松平容保公の屋敷を辞すと、佐川官兵衛がにやにやしながら近寄って来たのであった。
「おい、まさかこれで帰る積りではあるまいな。実は高木家の人々にも、お前の実家の山口家(祐助やますは既に亡くなって、兄の廣明だけの参加であった)、果ては永井の殿様や山口直邦殿、大鳥圭介殿、講武所の男谷精一郎殿はもう亡くなられたが、そこで知り合った勝海舟(麟太郎)殿、榊原健吉殿、三橋虎蔵殿、山岡鉄太郎殿、小野田東市殿も皆料亭に集まっていて、お前らが来るのを今か今かと待っているのだ。手代木直右衛門殿は、先に行ってこちらが終わったことを知らせに行っとるのだ。山川浩は忙しい、忙しいと言いながら先に帰った。お主ら二人によろしくと言っておった。」
 こうして一同は近くの料亭麹屋に集結し、二人を祝福するとともに、鰻の棒葉焼きなどを摘まみながら旧交を暖めたのである。夜も更けてくると、二人は佐川に呼び出され、外に出たのだった。彼はそのまま二人を近くの宿に連れていき、そこには既に二つの枕を並べ、蒲団が敷かれてあったのである。佐川は二人に対し、こう言ってその場を離れたのであった。
「実はこの席を設けたのは、新婚初夜を義兄しかいない実家で過ごすのは決まり悪かろうと思うたからなのじゃ。ここでゆっくり朝まで過ごすが良かろう。」