永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
やそは伝八を抱きしめ、頭を優しく撫でるのだった。『死人暗示』の効果が切れ掛かったのか、伝八はやそに抱かれながら、涙を止めどなく流したのである。また、それを見掛けた時尾やその家族も、貰い泣きせざるを得なかったのだった。
しかし目前には、下北移住が待った無しで迫っていたのである。下北移住とは、新政府軍に敗れた会津藩の者全員が、陸奥の下北へと藩替えさせられることが、この時決定していたことなのだ。旧会津藩首脳部と言うより山川大蔵は、この地を希望を以って斗南と名付けたのである。しかし会津から斗南までの輸送手段は新潟から出港する船だけで、ほとんどの者が徒歩でそこまで行かなくてはならなかったのだ。
高木家の面々は後日、一瀬夫妻と共にその新潟へと歩き始めたのである。高木家は義母の克子、義弟の盛之輔とその妻子、義理の叔父伝治、義理の伯母の磯(白虎隊で死んだ職之助の母で未亡人)であった。黒駒は贅沢品であったが、売り飛ばしたり食料にする気になれず、この時一家の残された荷物を全て背負ったのである。伝八はその道中、やそがどこかへ行かないように長い帯で自分と彼女を結んだのであった。この移住船の世話をしたのは、下北で一家が世話になることになっていた少参事倉沢平治右衛門だったのである。黒駒もまた、倉沢の好意によって船に乗せてもらえたのであった。明治二年六月までには、これらの移住は全て完了したのである。
斗南では倉沢が借りた五戸村の屋敷に居候し、やそは妻子のいない倉沢の養女と言うことになった。彼は斗南で漢学塾を開き、教育熱心だった会津の伝統を絶やさないようにしたのである。彼はかって西郷頼母と政敵であったが、高木の亡くなった父親とは親友同士だったので、その縁で高木家の世話をし、その縁で一瀬家も面倒を見てくれていたのだった。当時の年齢は満で四四歳。会津落城直前に家老となったが、城の落城でそれも空しくなってしまったのだった。外見はいかにも教育者らしい頑固者であったが、心根は優しい男なのである。ところで一瀬の姓と言えば、この時伝八は倉沢の世話になるに辺り、会津藩士らしい姓名に再び改名している。彼の住むこととなった五戸には、新藩主松平容保の側室の子容大(かたはる)が住むほどの藩の中心地でもあって、同居人が一瀬では都合が悪いと考えたのかもしれない。『藤田五郎』の誕生であった。姓の『藤田』は会津に良くある苗字で、『五郎』は例によって本人の発案で、単なる息子の四郎の続きに過ぎなかったのである。この改名にいつもなら文句を言うはずのやそは、心が壊れていて何も言ってくれないのが寂しかったが、彼女はこの名前を覚えてはくれず、さすがに『望月三郎』とは言わなくなったが、何度『五郎』と云う新しい名を教えても受け付けてくれず、相変わらず夫のことを『一(はじめ)』と呼ぶのを止めなかったのだった。そんな彼女を、彼はもう咎めることさえ諦めてしまっていたのである。無理に『五郎』と言わせようとすると、こんな風になって彼女は童のように泣き出してしまったからなのであった。
「何度言ったら分かるのだ。俺の名は今度から『五郎』となったのだ。ほれ、言ってみろ。『ご・ろ。う』。」
「いやだ、一(はじめ)が怒った。時尾助けて。」
この時時尾は、まるでやその母親になってしまっていたのだった。
倉沢の家に厄介になってばかりでは心苦しいので、この頃一瀬伝八改め藤田五郎は、『浩』と名を改めた山川大蔵からの指令を受けて、探索方として走り回っていたのである。山川浩は、この地で若くして最高責任者の『権大参事』となっていたのであった。
五郎が多忙となってしまった結果、やその世話は皆時尾の責任となり、前述したように何時の間にかやそは時尾を母親のように慕うようになってしまっていたのである。生活は苦しかったが、倉沢の援助と五郎と高木盛之助の収入が有り、何とか一家の暮らしは支えられていたが、無理に連れて来た黒駒は農耕馬などに使うことが多く、ある日五郎が帰宅した時、家の前に倒れていて、その側にやそが座り込み、動かない馬の顔を撫でていたのだった。
「一(はじめ)、お馬が動かなくなっちゃった。」
やはり気候の合わない斗南で、あまりにも酷使してしまった結果だったのである。五郎はそれぞれ忙しい他の家族には何も告げず、一人穴を掘って、黒駒を葬ったのであった。
「お前も、まるで『死人暗示』を掛けられていたように、苦しくとも働いていたのだなあ。」
と彼が呟きながら、穴を掘っている途中で時尾が家の中から出て来たのである。すぐに彼女は全てを察したのだった。そして、黙って共に穴を掘ったのである。時尾は献身的にやその面倒を看たのだが、彼女は日に日に痩せ細ってゆき、弱ってしまっていったのだった。
明治四年七月、新政府によって廃藩置県が断行された。まるで黒駒のように儚く、斗南藩は消滅し、斗南県が誕生したのであった。
そんなある日、近くに住む佐川官兵衛が彼が在宅中、ひょっこり家に尋ねて来たのである。彼は近くに住んでいるので、もう何度となく、高木家、藤田家の人々を訪ねて来て、自ら作った酒を持ってきて、五郎と酒盛りをして帰っていたのだった。彼は、この時意外なことを言いだしたのである。
「なあ、藤田。お主に指令が下ったぞ。明日、県令容大様の護衛で、江戸へ行ってもらいたい。」
五郎が答えようとすると、やそが五郎に擦り寄って来たのだった。縋りついてくる手を見ると、もはや骨と皮ばかりで、生きているのが不思議なくらいである。しかしそんな風になってしまっても、五郎に縋りついている彼女は、ひどく幸福そうであった。
「明日は江戸ですか? それなら一つ頼みがあるのです。せわしないですが、明日の朝、やそとの祝言を挙げてから、江戸へは発とうと存じます。恐らくやそは、私が帰るまでもたないと思いますので。」
「今さら祝言? そうかわしはお前らが一緒になった頃からの付き合いだが、二人が祝言を挙げたなんて話はまるで聞いとらんからな。藤田と姓も変わり、やそ殿も倉沢殿の養女となられたこともあるし、良し、やろう、祝言。」
「佐川殿。忝い。お手伝い願えますか。」
「おう、任せとけ。軍資金は山川からふんだくってくるし、照姫様の古着ももらって、これを晴れ着としよう。何、二人が祝言を挙げるんだと訳を話せば、快く下賜して下さるだろう。忙しくなるぞ。それよりお主の着物はどうする?」
「それですが、永井十訣の揃いの衣装がまた残っています。あれならそのまま護衛の任につけるので、あれにしようと思うのですが、変でしょうか?」
「おう、お前らしくて良いな。ただし、顔の前に垂らす布は上げておけよ。それからやるのは明日だから山川の奴は来れねえだろうから、手代木さんは呼ぼう。それに俺は、お手製の酒を全部持ってくるぞ。」
「祝言を挙げるって本当ですか?」
何時の間にか二人のいる部屋に、白湯を持って入って来た時尾が、歓声を挙げたのである。
「あぁそうだ、時尾殿。明日ささやかながら、やそと祝言を挙げるぞ。お主もやその介添えとして参加してくれ。」
「えっ、介添え。」
「そうだ。やそはお前が側にいてさえくれたら、式の間中大人しくしているだろうからな。頼む。」
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊