永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
それでも、大坂城を模したと云う総構えと赤瓦(鉄を含む瓦)の鶴が城はなかなか落ちず、中にいた照姫を始めとする時尾達もまた地獄絵図の様相を呈していた。城内は負傷兵であふれかえり、すぐに包帯にする白布が足りなくなると、照姫は時尾達にこう命じたのである。
「私やそなた達の着ていない着物を裂き、包帯の代わりにするのじゃ。早くせえ。」
三十路を半ば過ぎたばかりの照姫だったが、気丈にも自ら負傷兵の看護に当たったのだった。時尾得意の治癒術も、一度に一人しか出来ず、お偉方専用になっていて、大勢には関わりの無いものとなってしまっていたのである。一方籠城戦では、山本覚馬の妹八重が男装し、得意の銃を撃って奮闘していたのだが、かえってそれが仇花となっていたのだった。籠城戦が長引くにつれ、負傷者の血の臭いに加えて、たまりにたまった糞尿の悪臭が城内に充満し、とても耐えられるような状態ではなくなっていたのである。古の楠木正成は千早城の籠城戦において、煮えたぎった糞尿を敵にばらまいて怯ませたと伝えられるが、まさに理に適った兵法であった。しかし、この場でその方法が採用されることもなく、籠城している者達は、徐々に精神的に蝕(むしば)まれていったのである。
これに対し新政府軍は城の南東半里足らず(約一、五キロ)の小田山の斜面に射程距離一里足らず(約三キロ)のアームストロング砲を据えて八千発の砲弾を連射し、美しい鶴が城を蜂の巣にしてしまったのであった。たまたま所用があって時尾が広大な本丸御殿の一室のやそを尋ねた時、近くに大砲が炸裂し、臥せっているやそをその破片が襲ったのである。いつ産気付くかも分からなかったやそは、そのショックで陣痛が始まってしまったのであった。しかし混乱している城内は、時尾以外に彼女の面倒を見てくれる人などいなかったのである。仕方なく彼女は、傷の応急手当てと同時に、やその助産を行ったのであった。幸い傷は軽かったが子供は逆子らしく、助産は専門とは言っても若い彼女にはそれは経験の無い施術であった。しかしもうやるしかない。時尾は覚悟を決めると、せめてお湯は沸かしたのだが、そこにまた砲弾が被弾し、辺りは火の海になってしまったのだった。彼女は何とかお湯だけは確保し、消火しようとしたのだったが、その衝撃でやそが産気付いてしまったのである。火を消す暇も無かった。時尾は助産を始め、やその身体に手を突っ込んで男の子を引きずり出したのだった。その間炎は燃え広がり、時尾が臍の緒が付いたまま泣き叫ぶ子を抱いたまま、もはやこれまでと目を閉じた時、照姫がお付きの女中と共に中に駆け付け、時尾とやそとその息子を部屋から助け出したのである。照姫は女中と共に真っ黒になりながらも火をその部屋だけで消し止め、助け出した三人にも奇跡的に火傷などの負傷は無かったのだった。やそはうっすらと目を開け、
「照姫様、時尾。ありがとう。」
と一言言って、気を失ったのである。時尾もまた真っ黒になりながら、一とやその息子の臍の尾を改めて切り、新たなお湯で洗うと、照姫の方を向き直って、ようやくお礼の言葉を言えたのだった。
「照姫様、お付きの皆様方、本当にありがとうございました。やそ様も、一様の息子も、お陰で無事でございました。」
と、真っ黒な顔をしたまま礼を述べる時尾を見て、照姫は妙に可笑しくなってしまい、こう述べたのだった。
「ついでに時尾も無事で良かったな。ところで分からぬのだが、どうして自分の恋敵とその息子の命を、こうまでしてお前は守ったのだ。」
時尾はそう聞かれ、何も考慮することなく、こう答えたのである。
「だって一様は、こんな私だからこそ、やそ様と自分のお子様を託されたのですもの。それに一様は生きて帰ると私と約束されたのですから、あの方達を生きてかの方に再会させて差し上げなければ、私の女が立たぬのです。」
そう言って、時尾は照姫ににっこりと笑いかけたのだった。
九月八日、元号が慶応から明治に変わり、慶応四年は明治元年へと変わって、奥羽諸藩が米沢藩を始めとして次々と新政府に投降する中、こうした城の中の惨状も耳にしていた前藩主容保は耐え難く、重臣達と相談の上、明治元(慶応四)年九月二二日ついに鶴が城開城を指示したのである。
第七場 如来堂の戦い
一方、話は戻って山口次郎は明治元(慶応四)年八月二六日、塩川に転戦したのであった。続いて九月五日、如来堂を本陣として高久で戦い、この時直前まで共に戦っていた衝鉾隊副隊長が、例の坂本龍馬を暗殺した今井信郎だったのである。しかし彼ら衝鉾隊が別方面に出てわずか二十数名しかいなかった時、突然敵の一斉射撃が始まり、彼の率いる清水卯吉を含めた兵の内何人かは死んで、山口も背中で弾丸を受けてしまったのであった。しかし生き残った山口を始めとする十三人は、何とかその場を脱出したのである。しかし、その後行方の知れなかった彼らはその場に倒れていた他の戦死者同様全滅したものと思われ、山口次郎の名も、戦死者として後に建造された慰霊碑に名を刻まれることとなるのであった。
何時間経っただろうか、山口次郎は十三人の内清水卯吉と二人きりになって、飲み水や食べ物も山にある物を口にして、持病の下痢に苦しみながら敗走していたのである。彼らが目指しているのは、とにかく他の隊との合流であった。バラバラになった他の十一人の行方は皆目見当が付かない。そうやって闇雲に敗走した彼らが辿り着いたのは、城から出撃しようとしていた佐川官兵衛の率いる軍勢であった。九月六日のことである。当時家老に昇進していた佐川は、日光口の新政府軍を一掃すべく進軍の最中だったのだ。幸い二人の傷は軽傷だったので、逃げている内に治りかけていたのだった。よって担ぎこまれた鉄門(くろがねもん)櫓の指令室で水や食事を補給すると、お相伴をしてくれたのは、佐川の他に、見知らぬ若い男だったのである。なけなしの兵糧を食べ終わって一息つくと、佐川は早速話し掛けてきたのだった。
「山口、清水、命拾いしたなあ。ところでわしは出撃の途中で倒れていたお主達を見付けてここ(城内)に連れて来たのだ。もう行かねばならぬ。よって後のことはこの山川大蔵(おおくら)に任せるので、これでな。」
そう言って傍らにいた若い男を紹介して、官兵衛自身はそそくさと部屋の外へ出て行ったのである。後に残された三人は見知らぬ同士だったので、何か気まずい雰囲気が漂っていたのであった。そんな中、山川と呼ばれた男はまず気を取り直して、自己紹介を始めたのだった。
「私は山川大蔵と申します。日光口で大鳥圭介殿の副総督をしており、貴殿とは何度か顔を合わせておりますが、こうして個人的にお話するのは初めてのことでござるな。今は城で防衛総監を務めておる。それにしても強運でござるな。如来堂での戦いでは、全滅したと報告が入っておったのだぞ。もちろんそなたらの名もあった。しかし、これからどうする?」
口を利くのは初めての相手にぺらぺらと話されて、山口は少し戸惑いながら、こう返事したのである。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊