永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
この同じ日、山川大蔵(おおくら)率いる日光口の会津軍は外部にあったが、会津伝統の彼岸獅子に扮して、敵に妨害されることなく鶴が城下に帰還すると云う快挙を成し遂げたのである。彼は日光口で新政府軍を悩ませていたのだが、母成口が破られたと聞き、一早く入場すべく一芝居打ったのだった。しかしこれもたった一日の攻防で母成峠が突破されたので彼ら援軍も間に合わず、二三日までには、敵全軍が場内に突入してしまったからなのである。
山口と共に撤退した新撰組は、その頃急ぎ城下に戻っていたのであった。
第六場 鶴が城興亡戦
城下へ入った山口次郎は、取りあえず高木家へと急いだのであった。高木家の人々は、居候の自分が無事帰ったことを、まるで身内が戻ったかのように喜んでくれ、急いでやその伏せる奥の間へと案内してくれたのである。
やそは既に大きなお腹をして臥せっていたが、自分が部屋へ入って来ると、何とか自力で起きようとしていたので、すぐに手を添えて上半身を起こすのを手伝ったのであった。やそはもう涙を流しながら、こう言ったのである。
「一様(興奮すると、彼女は相変わらず昔の名前になる)、良くぞ無事お帰りになりました。やそはもう、お会いになれないかと覚悟を決めておりました。」
そう言って、やそは泣きじゃくり、一の胸に飛び込んだのであった。
「やそ、心配掛けたな。この通り、人も馬(黒駒)も無事だったぞ。あいつは蝦夷の産だから、こちらに来てから大活躍だよ。」
次郎がそう言っても、やそは泣いたままで、何もしゃべれないでいたのである。そこへ時尾の義母克子がそっと現れ、こう声を掛けたのだった。
「お邪魔いたします。山口様、ちょっと宜しいでしょうか?」
次郎はやそを再び寝かしつけると、部屋から出で襖を閉めたのである。克子は次郎に、意外な話をし出したのだった。
「山口様。聞き及びます所、戦況はますます不利にて、いよいよ明日にも賊徒ども(新政府軍)は城下に攻め入って来るのでございましょう?」
「はい。ここにきてもう隠しだては致しません。」
と次郎が答えると、克子は決意したようにゆっくりこう言ったのである。
「今更どこへ逃げるのも、やそ様は不承知でございましょう。かと言って、身重なやそ様を私共でお守りする自信はございません。そこで時尾に頼りをして相談致しました所、他ならぬ山口様の御内儀のやそ様なら、お城の本丸御殿で引き取っても良い、と、照姫様がおっしゃってくれたそうにございます。お疲れのこととは申しますが、やそ様も動けるのはもうわずかな間でしょうし、賊徒共もいつ攻め入って来るやもしれません。今すぐやそ殿を伴って、本丸御殿に連れていかれたらいかがでございましょうか。」
そこで、一足先に高木家の嫡男で元服して名を盛之輔と変えた五郎が城の本丸御殿と滝沢本陣に知らせに行ったのだった。因みにこの時彼は松平容保の側近となっており、今日はたまたま容保公のいる滝沢本陣から帰宅していたのである。やそは次郎に付き添われて、気丈にも自らの足で城へと向かったのであった。城の門前には時尾が待っていて、先に声を掛けてきたのである。山口は馬を止め、そこから急いで降りたのだった。
「一様(彼女も、久し振りに会えた興奮のあまり変名のことを忘れている)、お久しゅうございます。それとやそ様、肩をお貸ししますので、すぐ御殿の部屋まで御案内いたしましょう。」
「時尾。心配掛けたな。面接の折は、挨拶もせずに帰ってしまい、まことに済まんことをした。無事祐筆に採用されたそうじゃの。まずは目出度い限りだ。」
「時尾、面倒を掛ける。よろしく頼むぞ。」
と次郎とやそが答え、早速城の本丸御殿まで二人は案内されたのである。やそが広大なそこの一室に寝かされると、そこへ照姫が現れたのだった。やそは伏せるのをやめ、次郎に助けられて半身を起こしたのである。
「そちらが新撰組の山口次郎とその内儀のやそか。時尾から話を聞いておる。山口、白河城でも母成峠でもすごい活躍だったそうじゃの。城内でも評判じゃぞ。さすがは新撰組じゃとな。」
照姫様は高貴な御身分であるにもかかわらず、かなり気さくな性質(たち)でいらっしゃるようであった。
やそを休ませる為、照姫への挨拶が終わると、次郎は退出することとし、建物の外に出、時尾はそれを見送る為に共に外に出たのである。
「一様、良く生きて帰って来られましたね。ですが、戦いはこれからますます激しくなります。どうか、時尾にお約束下さい、何があっても、生きてもう一度お会いできると。そうしないと、生まれてくる赤子との対面が叶いませんよ。」
「時尾、私が死んだら、お前はまだ若いのだから、私のことなど忘れ、他の男と一緒になるのだ。分かったな。」
「嫌です。例え大頭領の言葉と言えども、それだけは従えません。もしも一様に何かあったら、時尾は髪を下ろし、やそ様と共に一様の菩提を弔って生涯を過ごしとうございます。もしそれが嫌なら、生きて、生きて帰って来て。」
今ならそう言って、時尾は次郎に抱きついていたかもしれない。しかしこの時代では、相手を涙をためた両目でじっと見つめるのが精一杯だったであろう。次郎は彼女の涙をそっと拭い、いつものように冷静な声でこう答えたのだった。
「泣くな、時尾。私も生きてもう一度お前と見(まみ)えよう。だから、お前も死ぬな。生きてもう一度やその焼餅を見るのだ。良いな。」
次郎は生まれて初めての冗談をそう言い残すと、夜の城をまるで昼間のように駆けて行ったのである。時尾はそれを、いつまでも見送っていたのであった。
その後、山口はゲリラ戦のため黒駒を高木邸に置いて如来堂に出陣したのである。その間新政府軍が滝沢口から突入した鶴が城下は、まさに地獄絵図と化していたのであった。まず、滝沢口で松平容保を守っていた会津軍は、容保ごと鶴が城に撤退したのである。また八月二二日に出撃した白虎隊は、その後その中の士中二番隊の十九人が、飯盛山で敵中に孤立し、捕まって縄目の恥辱を受けないように自刃して果てしまったのであった。その中で十六歳の飯沼定吉と云う者だけが自害したものの命が奇跡的に助かり、後は山口と縁続きの同じく十六歳有賀織之助を始めとして、あの時山口と親しく語り合った十七歳の篠田儀三郎や安達藤三郎も若い命を散らしたのである。この他、十五歳以下の少年隊や、玄武隊にも入れなかった隠居達による老人隊、武家の子女達で長刀片手に結成した娘子(にょうご)隊などが中野竹子を先頭に果敢に新政府軍に立ち向かったが、皆新式銃ミニエーの餌食となってしまったのだった。また白河の戦いで総督を解任された西郷頼母の屋敷では、残された二一人の老若の女達が全員自刃すると云う痛ましい出来事があったのである。その一方、その事実を知らぬ頼母は、敵の城下突入を聞いて自らの守りを放棄して城に戻っていたが、落城近しと見て一人息子と共に得意の縮地の法(瞬間移動)で城を抜け出し、次なる戦場を求めて徒歩で蝦夷へ向かったのであった。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊