永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
「頼母様、どうかお止め下さい。頼母様はお約束してくれたではありませんか。この戦に生き残ったら、この私に御式内(おしきうち)のお留流を伝授してくれるのでは無かったのですか。1
「山口、止めるな。止めてくれるな。」
横でこの有様を見ていた佐川官兵衛も、こう言って頼母を説得したのである。
「戦いはまだこれからでござるぞ。こんなところで死んでどうなさいます。まだ会津の大殿や若殿をお守りせねばならぬではありませぬか。」
この言葉に心を動かされた頼母は、山口に抵抗するのを止め、項を垂れて本陣を離れたのであった。
その後新総督内藤介右衛門の元、庄内藩からの援軍も有って白河城への攻撃は繰り返されたが、やはり城は頑強に落ちず、ついに七月十四日の攻撃をもって最期とし、全軍撤退することとなつたのであった。撤退した山口は、城下に残したやその様子を一目見たかったが、それも叶わぬまま、次の任務のため出動しなければならなかったのである。
第五場 母成峠
白河城を奪取した新政府軍は、二本松藩の二本松城を攻略。その結果奥羽列藩同盟からの脱退者が相次ぐ中、二本松から会津への進撃が開始されたのである。山口次郎達新撰組と会津友軍と大鳥圭介の伝習隊は、幾つもの会津城下への進入口の内母成峠を、七月十九日、幕府歩兵奉行大鳥圭介の指揮の元兵七百で担当したのである。西郷頼母を外した当時の会津首脳陣は、この母成峠を重視しておらず、会津西街道(日光口)や勢至堂峠(白河口)、さらに中山峠(二本松口)を警戒して主力を集めていて、母成峠から敵が来るとは思われず、これは傷ついた新撰組と司令官大鳥を侮った配置なのだった。しかし八月二十日、土佐の板垣退助、薩摩の伊地知正治の率いる新政府軍主力二千が、ここ母成峠に侵入してきたのである。その一方、中山峠に陽動部隊を派遣したのだった。大鳥圭介司令官はこれを見抜いたが、主力軍が迫り、これを司令部に伝えられなかったのである。傷の癒えた山口次郎は、敵の大軍発見が報告されると、敵の見える小高い岩場に友軍で唯一近代銃シャスポー銃を持った伝習隊と共に立って刀を抜き、新政府軍目掛けてこう叫んだのだった。
「無外真伝剣法四則、『神明剣』。」
彼の叫びと共に彼の鬼切丸と伝習隊の銃口が火を噴いたのである。しかし敵は大軍であった。幕府軍の奇襲で一部は傷ついたものの、すぐに大量の連発銃で応戦してくる一方、伝習隊の不得意な白兵戦を挑んできたのだ。逆に白兵戦の得意な新撰組は、斬り込んできた新政府軍の兵を、伝習隊の兵を守って奮戦したのである。山口次郎もまた、
「無外真伝剣法五則、虎乱入。」
と叫びながら、左右両手に刀を持ち、斬りまくったのであった。その甲斐あって、ついに旧幕府軍は、大軍を一度退却させたのである。
八月二一日早朝、濃霧の中態勢を整えた新政府の大軍は二手に分かれ、再び母成峠に進軍したのであった。しかし正面軍と戦っている間に回り込んだ敵右翼軍が、銃器の乏しい会津兵に濃霧の中から一斉射撃を行うと、情けないことに彼らは大混乱して退却を始めたのである。たださえ寡兵の旧幕府軍の中で大部分を占める会津兵が退却し始めたことにより、全軍総崩れとなってしまったのであった。これもまた、銃器戦はおろか戦自体に慣れていなかったことの悲劇であったろう。
こうして母成峠を突破した新政府軍は八月二二日、伝習隊が町に火を付け進軍を妨害するのにも構わず猪苗代城に向けて進軍したのであった。伝習隊と共に猪苗代城を訪れた山口次郎は、懐かしい副長土方と出会ったのである。彼はある程度傷が回復し、滝沢峠の防戦の予定でそこに来ていたのだった。土方は城の庭で山口を見るなり、こう言って声を掛けてきたのである。
「よう山口新撰組局長、母成峠ではひどくやられたようだな。」
山口は突然声を掛けられ、焦っていた時だけにひどく驚いたのだった。
「土方さん。もう足は宜しいのですか。」
「おう、完全とは言えねえが、そんなことを言ってられねえしな。それよりおめえ、時間がねえから単刀直入に言うが、俺はこれから米沢を経て、庄内藩に援軍を頼みに行って来る。もし不首尾だったら、俺と一緒に蝦夷に行かねえか。」
「蝦夷?」
「そうよ蝦夷よ。今仙台に榎本武揚が、幕府艦隊を率いて来てるんだけどよ。奴さん、蝦夷を日本から独立させて、旧幕臣どもを集めて独立国を作る積りらしいぜ。」
「とすると、会津はどうなりまする。」
「どうもこうもこうもねえやな。新政府軍がここ猪苗代まで攻め込んでくるようじゃ、会津はもうしめえだよ。悪いことは言わねえ、山口。おめえの殿様の永井尚志様も一緒なんだ。そん時は俺と一緒に蝦夷へ行こうぜ。」
山口は、はやる気持ちを押さえつけて、間を置いてから初めて土方に言い返したのである。
「副長、そいつは駄目だ。」
「何、駄目?」
「たとえ蝦夷にどんな志があろうとも、こうしてひとたび会津に来たからには、今会津が落城するからと言って、最初の志を捨て去るのは、新撰組の誠の名に恥じましょう。」
山口は口では綺麗事を言っていたが、実際気になっていたのは、会津城下に置いてきたやそと時尾の姿なのである。しかし土方は、長年手足の如く使ってきた山口にそう言われ、しばらく彼を見つめていたが、やがてその肩を一つ叩くと、こう言ったのであった。
「そうかい、それじゃお前さんは好きにしな。それにしても、新撰組にへえった頃は死人(しびと)だったおめえが、随分まともな口をきくようになったじゃねえか。けどな、おいらはまだ新政府の奴等と戦い足りねえんだ。だから蝦夷へ行く。考えてみりゃ、おめえ会津には嫁さんがいるんだろ。結婚しなかったおいらにゃその気持ちは分かりゃしねえしな。」
「副長。」
「じゃな。山口。でえじな嫁さんの為にも、てめえは死ぬんじゃねえぞ。おいらはさっきは綺麗事を言ったが、蝦夷に死に場所を探しに行くのよ。おい隊士共、山口に付いていく者はここに残れ、俺に付いて蝦夷に行く者は、俺より先に仙台に行くんだ。会津全滅に突き合うんじゃねえぞ。」
こうして土方は、米沢へ去って行ったのである。しかし彼が去った後、鉄の結束を誇ったさしもの新撰組も山口に従った清水などの十四人を残し、その一言によって、長年山口同様副長代理を務めていた安富(やすとみ)才(さい)輔(すけ)や島田魁を中心とした隊が分離してしまったのであった。この時、田中律造もまた、清水と別れて仙台へ行ってしまったのである。彼にしてみれば、例え清水と山口と別れても、主君の永井と共に蝦夷へ行くのは当然のことだったのかもしれない。
ところで、猪苗代に侵攻する新政府軍を見た城代は、城に火を放ったのである。しかし新政府軍は燃える城を無視したのだった。そして、そのまま鶴が城下を目指したのである。敵襲来を知った会津側は、城下との境である十六橋を取り除こうとはしたが、運悪くこの橋は石橋で必要以上に頑丈に出来ており、破壊工作に手間取る内に、新政府軍は橋を渡り切ってしまったのだった。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊