永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
山口は再び頼母の方を見ると、頼母もまたやる気満々で、既に襷掛けを始めていて、彼と目が合うと、にっこり微笑んだのだった。山口は内心、またか、と思いながら、こう答えたのであった。
「承知致しました。幸い傷も癒え、体調は万全にございますれば、拙者には異存はござらん。しかし、この御家老様が拙者の相手になるとは、いささか信じられぬのでござるが…。」
それを聞いた容保は、笑いながらこう言ったのである。
「ははは。年寄りと思うて侮っておると、山口も痛い目に会うぞ。これでも頼母は会津一の使い手。御式内(おしきうち)のお留流の第一人者だ。そこにいる佐川なども足元にも及ばぬはずじゃ。」
さっきからずっと喋りたくてうずうずしていた佐川官兵衛は、やっと自分がしゃべる番が回って来たのを喜びながら、急き込んでこう言ったのだった。
「そうだぞ、山口殿。遠慮はいらん。そなたの左腕で、無外流の気功の技を思う存分見せてやりなされ。」
「しからば。」
と山口は答え、刀を持って立ち上がり、手代木に促されて庭に降り、いつものように左で青眼でへなへなのへっぴり腰に構えたのであった。頼母もまた、襷掛けを済ませてから庭に降りて、懐から出した木と紙で出来た扇子を構えたのだった。
「御家老様、そのようなものだとお怪我をなさいますぞ。」
と山口が言うと、頼母は涼しい顔をしてこう答えたのである。
「当方は一向に構わぬ。存分に参られえ。」
山口は仕方なく心の中で、
『無外真伝剣法十則、万法帰一刀。』
と念じたのだが、いつものように頼母の心の中が見えることも無く、その心の中は今日の初夏の空の如く澄み切っていたのだった。山口は慌てた。彼の読心術が役に立たないのではない。頼母の心の中が、言ってみれば『無』なのである。彼がどうしたら良いか迷っていると、突然目の前にいた頼母が掻き消え、次の瞬間彼は山口の目の前に現れて、手にした扇子で軽くその小手を打ったのであった。別に頼母が力を加えたわけでは無かったが、ゆるく握られていた鬼切丸は、彼の手からぽろりと落ちてしまったのである。山口にとって、始めての完敗であった。
「頼母見事。」
と容保の声が掛かると、山口はその場にしゃがみ込み、手を付いて頼母に教えを請うたのである。
「西郷殿。お教え下され。今一体何がどうなったのでござるか。拙者は以前、全身に気を巡らせ、尋常ならざる速さで動く敵と立合ったことがございます。しかし、その時でさえ、相手の動きは何とか読むことが出来ました。ところが、たった今西郷殿の見せた技は、まったく予想も付かず、またうっすらとも目に留まらなかったのでござる。」
と、いつもと逆の質問をすると、頼母は笑いながらこう答えたのである。
「山口殿。お立ち下され。初めからお答えし申す。わしは研究熱心でな。若い頃藩命で日の本中の兵法の流派を探索したことがあったのじゃ。そちの無外流万法帰一刀も、もちろん存じておる。もっとも書物の上だけのことで、実際目のするのは初めてじゃがな。わしは長年の修行の末、万法帰一刀が例え実在しても、それに勝てる法を生みだしたのじゃ。それはの。『閉心術』と言う物なのじゃ。万法帰一刀は人の意を悟る技故、心を閉ざして自らの意を知らせぬようにするのじゃ。要するに、万法帰一刀を身に付ければ、それで修行は終わりと云うわけではないのだよ。そして、それに加えて陰陽道の極意の縮地の法(瞬間移動)を用いて、お主の面前に近寄って小手を打ったのじゃ。お分かりかな。」
「そ、その閉心術や縮地の法とは、一体どのように行うのでございますか?」
「それはのう、もちろん才能や修行が無ければ出来ぬが、お主なら既に万法帰一刀によって『意』をつかめるじゃろうから、わしが直接指導すれば、会得することもできよう。」
「そっそれを、拙者に今すぐご教授願うわけにはいかぬのでしょうか?」
「わしもそうしたいのは山々なんじゃが、今白河城攻めが間近に迫っていて、それも叶わぬ。もしも、主とそなたがこの戦に生き残り、機会があったなら、是非ともわしの御式内をおこうの息子に伝授致したいと思うのじゃ。」
「約束ですぞ。拙者は忘れませぬ。」
そう言って山口は、それ以降西郷頼母に従って、白河城攻防戦に向かうのであった。山口は頼母から教えを請うため、彼を死なさい為に力を尽くそうと誓ったのである。
山口は黒駒に乗って新撰組と翌日会津若松を出陣し、まず赤津に宿陣し、次に三代に転陣したのだった。そこで山口は隊を副隊長の安富才輔と田中律造や清水宇吉らに任せ、佐川にそこで密かに頼まれたことを実現する為、隊を離れたのである。彼が佐川に頼まれたのは、次のようなことであった。
「山口、実はそなたに頼みがあるのだ。」
「なんでございましょう? 何なりとお申し付け下さい。」
「実は奥羽鎮撫総督府下参謀世良修造と云う者がおってな。この者が陸奥の諸藩に呼び掛けて、我等会津を討つように説いておるそうなのじゃ。わしは奥羽諸藩が我らの味方にするには、総督府の中から誰かを斬り捨てるしかないと思っておる。しかも、我等に味方することを躊躇している藩にいる時にな。わしはその生贄には、その世良修造しかないと思っておるのじゃ。幸い仙台藩には、瀬上主膳と云うわしの同士もいて、世良の存在をわしに伝えてきたのも、実はこの者なのだ。貴殿は早速仙台藩へ行き、この者の手助けをして、世良を亡き者にして欲しい。因みに奴は短筒(ピストル)を常備しておる故、そのことに十分注意してことに当たって欲しい。ただお主の力を持ってすれば、暗殺など容易いことだろうが、ここは何としても仙台藩の者に世良を討たせてやって、お主はあくまでそれを可能にするよう手助けしてやって欲しいのだ。万が一お主が世良を斬ることになっても、悪いが手柄は仙台藩の誰かに譲って欲しい。分かるね。」
そこで山口は黒駒に飛び乗って、早速一人仙台に飛んだのである。閏四月十六日仙台に着いて、瀬上のいる仙台藩軍事局のあった長楽寺に入った山口は、彼らから世良が福島に向かったことを知り、共に密かにそちらへ向かったのである。山口の見たところ瀬上以外の彼の同士のほとんどは、総督府下参謀を殺せば取り返しのつかぬことをしてしまうことは十分承知していたので、世良殺害には慎重なのであった。しかし瀬上は佐川に告げたように、世良の若い癖に傲岸不遜な態度に腹に据えかねていることもまた確かだったのである。これは学者肌の世良が、若いのに重責を担い、相手に侮られないように精一杯虚勢を張っていたからに過ぎない。彼にとって不幸なことは、それが全て裏目に出てしまったことなのかもしれない。福島城下の鰻屋を兼ねた宿屋客自軒に集結した一味が待ち構えている所に、何も知らぬ世良が福島へやって来て、すぐ近くの金沢屋と云う旅宿に未の刻(今の午後二時から三時頃)に入ったのだった。世良はそこで何やら書をしたためているらしく、酉の刻(午後五時)に入ると世良の文(ふみ)を託された福島藩三名が宿から出て来たのである。しかし彼ら福島藩士らは福島藩家老と相談の上、瀬上らに寝返り、世良の密書を瀬上らに渡して、皆でその内容を読んでしまったのである。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊