永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
「そうか、それでは講武場で待っているから、
一(はじめ)が目覚めて良いようならすぐに連絡をくれ。明日には講武場の猛者どもも、正月早々待機しておるでな。」
近江守はそれだけ言うと、再び口元を布で隠し、すたすたとその場を去っていったのだ。一同は軽くそれに会釈すると、今度は川井が口を開いたのである。
「それでは山口殿、申し訳ないが、私は斎藤殿の弔いの用意をせねばならぬのでこれで失礼するが、後のことはよろしく頼む。お芳、ぬかるでないぞ。おこう殿頼む。」
「承知しました。この場はお任せ下さい。」
「義父上、後で仔細は申し上げます。」
川井は黙って頷き、そのまま去って行ったのを見送ると、先程からあまり話さずに顛末を見守っているはずのこうの方をふと見ると、彼女はじっと何やらを見つめながら両の眼にいっぱい涙をためていたのだった。彼女が泣くのを初めてみた芳は、驚いて思わずこう尋ねたのである。
「こうさん、何を見て泣いているのですか?」
そう言われて初めて我に返った彼女は、すぐに両目を袖でこすると、いつもの冷静で無表情な様子に戻っていたのだった。
「何でもありません。」
芳は彼女の見ていた方向を見てみると、人々によって斎藤平兵衛の遺体が運ばれている所だったのである。
「こうさん、師範とお知り合いだったの?」
「いえ、何でもありません。」
もうそれ以上何を尋ねても無駄だと悟った芳は、今度は祐助の方を向いて話しかけたのだ。
「祐助様。」
近江守と祐助の苗字が同じなために、周囲の者は山口祐助のことを名前で呼ぶ者が多かったのである。
「何か。」
祐助は、心配そうにやそと一(はじめ)の様子を窺いながら答えた。
「祐助様は先程の勝負、ご覧になっておられたのでしょう。」
「いかにも。遠目だが、はっきりと見ていた。」
「ならば教えていただきたいのですが、あの立ち合い。私には何がどうなったのかまるで分らなかったのです。」
祐助は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに気を取り直して、こう言ったのである。
「斎藤様の獅子王剣は、気を刀身に溜めに溜め、その力で一瞬の内に相手に達し、たとえ刀で受けようとしても、それごと相手を粉砕してしまうという無敵の技のはずなのだが、それも相手がそれを知らぬ時に限られるのだ。」
「何故ですか?」
「そのことを知っていれば、気を溜めている間に先手を打てば良いからだ。一(はじめ)もそれを承知していたので、当然先に突いて出た。しかも左腕一本の突き。侍には左利きの者はおらぬ故、左から、しかも片腕で突けば、防ぐのは難しい。もちろんそれも、人並み外れた腕力(かいなぢから)を持つ一(はじめ)だからこそ出来るのだがな。ところが斎藤様は、一(はじめ)がそう出ることさえ読み切り、真っ直ぐではなく、横に飛んで、踏み込んできた奴を斬り捨てようとしたのだ。だが、既に万法帰一刀を会得していた一(はじめ)は、それらをあらかじめ全て知り尽くし、その上で突きを途中で止め、初めから左横に寝かして突いていた刃を横に払ったのだ。」
それを聞いた芳は、大きな目をまあるく見開いてこう言ったのだった。
「はー、すごいですね。」
「そうだな。一(はじめ)はよくぞ永井家百年の宿願を叶えてくれた。」
「いえ、私がすごいと思ったのは祐助様ですよ。良くあんな一瞬の出来事をお分かりになられましたね。」
祐助は、少し苦笑いをしながらこう言ったのである。
「お主も忍ならあの程度見えぬでは済まぬぞ。」
芳は、両手で大きく手を振りながらこう返したのだった。
「いえ、いえ。見えなかったのではなく、何だか分からなかっただけなのです。ところで祐助様、その永井家百年の宿願と言う言葉を何度が耳にしたのですが、それは一体何なのですか? 何となく、もう知っていて当たり前と言う感じで皆使っていますので、どうも今さら改めて聞くことも憚られて、どうかこの機会にご教授下さいませ。」
「おいおい、それはまことか? まさか加納の家中の者で、このことを知らぬ者があろうとはな。」
「はい、面目次第もございません。私の義父上は極端な無口で、しかもとても怖いので、普通家の誰かから聞くものだと思うのですが。」
「そうか、お主の所は義父以外の家族は、このことを何も知らなかったのだったな。ならば仕方あるまい。話してあげよう。」
「はい、是非お願いします。」
祐助も、無邪気な彼女にせがまれて満更でもない表情で語り始めたのだった。
「そもそも幕府開闢の折、公儀隠密と言えば服部家、二代様の折は柳生様が大目付とおなりになり、全国の大名の剣術指南役に柳生の者を遣わし、全国の大小名の情勢を掌のように掴んでいたことは知っておるな。」
「そりゃもう。」
と言いながら、芳はにっこりと頷いたのである。これで実は加納忍群一の房術の遣い手であるとは、さすがの山口祐助も知る由もなかった。
「当時我がご主家であらせられる永井家は、その家臣達が隠密に専念させる一方、専ら公儀に仇なす者を粛清する刺客のお役を果たさせていた。しかし…。」
「しかし?」
と、芳は首をかしげながら聞き返したのである。
「しかし、まず服部様が三代でご改易となり、柳生様は宗矩様のお亡くなりとなられた後、後を継がれた宗冬様が、ひそかに城内で行われた尾張柳生の厳包(としかね)様との立ち合いに敗れ、それがひそかに日ノ本中に広まり、江戸柳生の剣への信頼は地に落ちてしまわれた。そこでだ。」
とここで祐助は息をついた。芳は黙って彼を見つめながら、じっと続きを待っていたのである。おこうはその横で聞いているのかいないのか、鋭い視線で辺りを見回していた。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊