永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
一番隊長、沖田総司。二番隊長、永倉新八。
三番隊長、斉藤一。四番隊長、松原忠司。
五番隊長、武田観柳斎。六番隊長、井上源三郎。
七番隊長、谷三十郎。八番隊長、藤堂平助。
九番隊長、三木三郎(伊東甲子太郎の実弟)。
十番隊長、原田左之助。
しかし、持病の結核がこの時悪化していた沖田の一番隊は、実質永倉が二番隊と共に率い、山南同様粛清されて死ぬ松原忠司の四番隊は、斉藤一が三番隊と共に率いることとなるのであった。こうした粛清劇と、伊東甲子太郎の参謀就任で自らの居場所を失った五番隊長の武田観柳斎もまた、この時からひどく迷い始める一人なのである。
慶応元年十一月四日、第一次長州征伐の結果降参した長州に対し、大目付に出世した永井主水正尚志は、降伏条件の速やかな執行を求めるべく長州へと乗り込んだのであった。そのお伴と言うより護衛のため、新撰組の近藤自ら随行したのである。この時新撰組からは近藤の他に五番組隊長の武田観柳斎、監察の山崎丞、参謀の伊東甲子太郎、その一派から服部武雄、他の隊士四名が随行したのだった。もちろん斉藤も行きたかったが、土方が彼を離してくれなかったので、代わりに京に来たばかりの神農のお芳を密かに伴わせたのである。心眼で不自由が無いとは言え、目の不自由な木又では探索にならないからであった。ただ詰問使と言われた彼らは、結局長州にはぐらかされ、何の成果も無いまま帰国することとなるのである。佇まいに似合わず強硬派の永井は、そんな時は交渉相手の長州の家老級の首を取ってやろうと近藤達を同道させたのだが、そんなお偉方とさえ会えず仕舞いに交渉は終わってしまい、結局ここ安芸まで無駄足であったのだった。
長州に逃げ帰っていた桂は、藩主毛利敬親(たかちか)公から木戸と姓を賜り、この時木戸寛治などと名乗っていたのである。また同じく大村益次郎と改名した村田蔵六と共に、奇兵隊を結成した高杉晋作から耳よりの情報を得るのだった。
「桂さんじゃ無かった木戸さん、良い情報を長崎から仕入れてきたぞ。お前さんは何でも今回の顛末を全て新撰組とやらのせいにして、奴らを潰すのに躍起になっているとか。でも新撰組には、永井十訣とか云う強力な組織が後ろ盾となっていて手出し出来ぬので、悔しい思いをしているそうだな。ここに、坂本竜馬の紹介で知り合った長崎のグラバーから紹介された刺客を連れてきた。グラバーの申す所によれば、耶蘇教のフリーメーソンとか云う組織の者で、近頃のメリケンの内戦(南北戦争のこと)で劣勢の北軍を勝利に導いた凄腕の傭兵集団なんだが、この度内戦が終わったとかで暇になったもんだから、遠く日本国まで出稼ぎに来たってわけだ。何しろこの日本には、きな臭せー臭いがぷんぷん臭ってるからな。奴らの良い稼ぎ場所ってわけよ。」
そこで、高杉の後ろから黒尽くめのマントに包まれた異様な二人ずれが陣屋の中に入ってきたのである。
「何だこの奇天烈な奴らは、耶蘇の坊さんの格好か。」
と驚いている木戸を尻目に大村益次郎は、高杉にこう尋ねたのだった。
「高杉殿、してこの者共は何を使うのですか。やはり銃でしょうか。」。
高杉はそう聞かれると、得意そうにこう答えたのである。
「良く分からんのだが、銃じゃないらしい。グラバーの話では奴ら全部で十四人なんだが、その力は銃で装備した一個連隊を全滅させる力があるそうだ、もちろん銃も使わずにな。何でも元々はエゲレスのグラバーの所にいたらしいんだが、仕事を求めてメリケンに渡ってたらしい。紹介しよう。黙示録の十二使徒の頭ナザレと副頭目のマリアだ。因みにマリアの方は、片言だが日本語も喋れる。」
頭目のナザレは、喋れぬためか黙って頭を下げ、副頭目のマリアは、アクセントのおかしい日本語でこう挨拶したのだった。
「ミナサン、ハジメマシテ。ヨロシクオネガイシマス。」
そう言って黒いフードの中から覗かせた顔と声から、意外と若く美しい西洋女性であることが知れたのである。高杉はマリアの挨拶が終わると、こう付け加えたのだった。
「何でも坂本君の話によると、奴らの技はこちらで云う気功を応用したものらしい。ここに十四人の内七人を副頭目を含めて置いていくから、大村君、好きに使ってくれたまえ。ではな。」
そう言い残して、黙示録の十二使徒の頭と共に出ていったのである。後に副頭目が残ると、残りの者六名が、影のように静かに代わって入ってきたのだった。その異様な様子を眺めながら、大村益次郎はこんなことを考えていたのである。
『ほう気功か。丁度良い。こ奴らを永井十訣にぶつけてやろう。その前にまず、どこかで腕試しをしないといかんな。』
大村の言う腕試しの機会は、すぐに巡ってくるのだった。
第六場第二次長州征伐
翌慶応二年正月二八日、永井は最後通牒を突きつけるため再び長州を訪れるが、結果は同じで今度も何の成果も得られなかったのである。それどころか、今回唯一近藤と共に同道した伊東と篠原泰之進の二人は、やがて新撰組を裏切ることを仄めかしながらこの機会に自ら長州や九州の攘夷論者達と語り合う旅に出てしまったのだった。この時、彼らは密かに大村益次郎と出会い、薩長の手先となることを約束してしまったのである。時はまさに薩長連合が成立した後だったので、こんなことも可能となったのであろう。しかしこうした動きは全て芳によって知られており、その口から斉藤、土方の耳に入り、伊東一派に対する一層の警戒が増したのだった。
永井が何の成果も挙げられなかったのを機に、幕府は長州への征討を再度決定し、六月七日、幕府艦隊の周防大島への砲撃が始められたのである。幕府は芸州口、小瀬川口、石州口、小倉口より合わせて十五万の大軍で攻め入り、そのためこの戦は四境戦争とも呼ばれたのだった。長州軍は、薩摩からの援軍は兵器のみだったので、合わせて五千の兵でこれを迎え撃たなければならなかったのである。もっともその銃は、ほとんど全て最新式のミニエー銃であった。これは幕府軍の使用していた旧式のゲベール銃より射程や命中精度において遥かに性能が優れていたのである。幕府の小倉口は高杉が、石州口は大村が担当した。大村は中立の津和野藩を通過して浜田城に至り、黙示録の使徒達の力をまずは試そうと、彼らを前線に出して浜田城を攻略させたのである。副頭目のマリアの指揮の元、六人は独特な湾曲した短刀を持ってその後ろに並び、彼女が右手を挙げてから勢い良くそれを下げた瞬間、彼らは一瞬黒い風となってかき消えてしまったのだった。永井十訣達と違い、彼らの能力は頭(かしら)から使徒に至るまで同じものである。まず全身の筋肉に「気」を行き渡らせ、常人には考えられぬ程の速さで全ての動きが出来るのだった。気功を使ったあらゆる技を駆使する永井十訣の奥義の中に同種の能力が無いのは、常人がその技を使えば、筋肉がズタズタに切れてしまうからである。それを可能にしているのは、彼らが常人離れした鍛錬をして、自分の筋肉が早さに付いていけるようにしているのだ。
大村がこの事態に呆気に取られている内に、彼らは元の位置に戻り、マリアは何時の間にか大村のすぐ近くに来ていて、こう言ったのである。
「シロオチタ。」
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊