永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
同年六月二十六日、続けて蛤御門の変が起こり、新撰組もついでに武力で潰そうと長州の村田はしたが、何故かやる気満々の二つの武力集団がぶつかることは無く、すれ違いのまま一カ月以上続いた乱は治められてしまったのである。ただこの時、池田屋事変の時囚われの身となっていた長州人の古高俊太郎が、京に火が付けられたので牢から一時出されたのだが、この機会を利用して彼は新撰組に惨殺されてしまったのだった。これを聞いた桂らは、新撰組に対する恨みを負け戦の腹いせと一緒にして、それを極限まで高めてしまったのである。そして長州に逃げ帰った桂は馬関海峡における外国船舶砲撃の報復を六カ国連合軍から受けると同時に、幕府からの長州征伐とさんざんな目に遭うのだが、長州征討軍総督徳川慶勝の斡旋により幕府と和睦し、長州は滅亡の危機を脱するのだった。その時桂は、このように誓うのである。
「たとえ刺し違えても、新撰組に復讐する。」
この時傍らにいた村田蔵六は、相変わらず冷静にこう助言したのであった。
「桂さん、お気持ちは分かりますが、まずは奴らの元に密偵を送り込むのが先決でしょう。今の所、あの斉藤一のせいでそれは不可能ですが私の頭脳をもってすれば、必ず道はあるはずです。機会を待ちましょう。」
元治元年十一月、隊士補充の為に藤堂、永倉、参謀格の武田観柳斎らと共に江戸へ下向していた局長近藤勇は、伊東甲子太郎とその弟子である北辰一刀流の者達を連れてきたのである。だが実際は、永井尚志の心酔する部下の一人で、永井三十忍の一人の山口駿河守直毅の務める神奈川奉行の下で働いていた篠原泰之進ら四名が動き、彼らの一人加納鷲雄を通して加納の剣の師の伊東と近藤を引き合わせたのであった。もちろん、神奈川奉行所にいた篠原泰之進の仲間の内二名も共に来たわけで、斉藤一とは同じ方向の組織の遠い同僚に当たると云うわけなのである。壬生の屯所に初めて来た時、斉藤一は物陰でこの篠原にいきなり自己紹介されたのだった。
「斉藤一殿とお見受けする。」
斉藤は見知らぬ男に突然話しかけられ、やそに教わった形式通りの挨拶をするしかなかったのである。
「如何にもそうでござるが、御貴殿はどなたでしたでしょうか。」
「拙者の名は篠原泰之進と申す。拙者は貴殿らの仕える永井主水正殿の右腕山口駿河守の配下でござる。この度友人の加納鷲雄の師、伊東甲子太郎殿をくどき、新撰組へと加入することとなり申した。貴殿とは同じ永井殿の組織の者として、これより同士として親しく付き合いたいものなのだが。」
斉藤は篠原の礼儀正しく積極的な態度に好感を持ち、その歓迎会で席を隣同士にして加納や残りの四人、新撰組での伊東甲子太郎の紹介者、藤堂らと親しく盃を交わしたのだった。この時斉藤は、例によって読心術を駆使し、彼らの心底を読んだのだが、大きな問題は無かったのにしろ、彼らの熱い勤王の志は、当初の目的とは違って新撰組が急激に佐幕化する昨今、非常に危ういものを感じたのである。
なお伊東甲子太郎は水戸の出身で、水戸派には芹沢のことで懲りたはずの近藤であったが、神奈川奉行からの推薦はあったものの、この男自身が自分に無い者を部下に求める傾向があり、ひどく喜んでこの極めて知性的な同士を迎え入れたのだった。斉藤から見れば、芹沢らと違って理性的に行動する彼らは、より厄介な存在だったのである。さらに彼らは、まず藤堂を味方に付けたのを皮切りに、同じ北辰一刀流の総長山南にも近付き、さらに斉藤や不満分子の永倉らにまで声を掛け始めたのだった。特に永倉に目を付けたのは入隊早々鋭い話で、斉藤としては油断の出来ない所であったのである。案の定副長の土方も伊東一派を怪しみ、密かに斉藤を呼び出し、こう命じたのだった。
「あの甲子太郎って奴はどうも気に食わねえ。巧言令色少なし仁ってのは、あぁ入った奴のことを言うんだろうな。いいか斉藤、てめえ奴らと親しいようだから、奴らの仲間になった振りをしてその動向を探るんだ。分かったな。」
そんな時、水戸の天狗党が攘夷を要求して乱を起こし、乱を起こした者が京の一橋慶喜の許しを期待して捕縛され、慶喜は冷徹にも元治二年二月四日、首謀者の武田耕雲斎ら二四名を処刑したのを皮切りに、計三五二名全員を斬首すると云う痛ましい事件が起こったのである。この事件は攘夷の総本山の一つと思われていた水戸出身の一橋慶喜が、もはや佐幕へと変わり果ててしまったことを意味し、全国の攘夷論者を落胆させたのであった。その中に、攘夷を忘れ佐幕化する新撰組を日頃から憂いていた山南敬助総長がいたのだった。また彼の所属する新撰組でも、その佐幕化を如実に示すこんなことが起こったのである。それは最近隊員が増え、壬生の屯所が手狭になったと考えた副長土方が、ことも有ろうに攘夷に与する寺で有名な西本願寺を新屯所にしてしまったのだった。勿論攘夷論者の山南は反対したが、局長の近藤も賛成し、伊東は黙して語らなかったので、どうしようも無かったのである。隊内で最も人望のある彼のそんな心の隙間を、見逃す伊東甲子太郎では無かった。また伊東自身も新撰組の佐幕化を憂い、この乱の顛末で幕府を、屯所の西本願寺移転で新撰組を見限っていたのである。彼は山南に言葉巧みに近付いたのだった。それは山南が馴染の輪違屋で愛妾の明里とやけ酒を飲んでいた時、伊東は大胆にもその場へ乗り込んできて、こう誘ったのである。
「山南総長、近頃の幕府と新撰組の状況をどう思いなさる。近藤局長は良い方だが、土方副長の為すがままだ。ここは同じ北辰一刀流の君と僕とが力を合わせ、局長を副長の魔の手からお救いすべきではないでしょうか。」
山南はこの伊東の言葉に少なからず心を動かされたが、かと言って伊東と手を結んで土方を排除する手助けをする気にもなれず、進退極ってしまったのだった。結局彼の出した結論は、
隊を明里と共に脱走し、沖田にわざと捕まって、法度に従って切腹することだったのである。沖田に捕縛されて屯所に戻ってきた山南に対し、永倉は彼に再び脱走を勧めたが、最早死ぬために戻ってきた彼に、その意思は無かったのであった。彼の切腹の時、局長の近藤は元より、
「士道不覚悟により、総長山南敬助に切腹申し渡す。」
と切腹を命じた土方も、介錯をした沖田も、そして斉藤を始めとする隊長達も皆涙したと伝えられているのである。斉藤は格別山南と親しいわけでは無かったが、鬼の土方も、いつもは猛々しい永倉や沖田や藤堂や原田も号泣しているのを目の当たりにしている内に、何時の間にか自分の両目からも熱いものが零れ始めていたのだった。それをいち早く見つけた原田は、こう叫んで斉藤に泣きながら抱きついてきたのである。
「斉藤、お前冷たい奴かと思ってたんだけど、山南さんのために泣いてくれるんだな。見直したぞ。」
一方、一人離れて静かに泣く振りをする伊東は、自分の誘いで山南を追い詰めてしまったことは誰にも悟らせず、永倉を始め、多くの隊士に土方への憎しみが募ったことを密かに喜んで、ほくそ笑んでいたのだった。
こうして同じ年の三月、屯所は西本願寺に移転し、これは機会に隊の構成が整備され、次のようになったのである。
局長、近藤勇。
副長、土方歳三。
参謀、伊東甲子太郎。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊