永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
と言ってくれたのだった。舟もちょうど鍋島河岸に着いた所だったので、一行が下船して厠のある所まで歩きだそうとすると、前から大阪力士が数人歩いてきたのだった。そこで道を譲れの何だのと云ういざこざとなり、芹沢なりの配慮だったのか、一時も予断のならない斎藤の腹具合を考慮してか、相手が攘夷力士の小野川秀五郎と分かっていたからか、単に短気だからなのかは判別しないが、
「寄れ。」
「天下の横綱に向かって、寄れとは何だ。」
「おのれ。この勤王かぶれが。」
と、いきなり彼は小野川を斬り捨ててしまったのである。なおも争いは激化したので、その時そこにいた喧嘩っ早い面々、つまり山南敬助、沖田総司、永倉新八ら六人(止めるべき土方はこの時芹沢が嫌いで同道していなかった)はすわ、とばかりに加勢し、下痢の斎藤を残して力士達を追っ払ってしまったのだった。
その後斎藤を含む芹沢達は、住吉屋と云う遊郭に登楼し、斎藤の手当てをしていたのだが、そこへ先程の惨事の仕返しに、八角棒を手にした力士達五、六十人が店の外に押し掛けて来たのである。店に迷惑がかかると、斎藤を一人置いて、全員で表に飛び出して、再び団らんとうになったのだった。今度は全員真剣を抜いて戦ったので、力士側は即死五人、怪我人十六人と云う大損害となってしまったのである。
この大乱闘が行われていた頃、斎藤は遊郭の洗濯場で一人下痢で汚した下帯を洗っていたのであった。忍者修行の癖で、未だに自分の者は、毎日自分で気の済むまで洗っていたのである。因みに八木邸で洗濯をしていると、同じく洗濯をする井上源三郎と、良く一緒になったのであった。彼は斎藤を見付けるとね嬉しそうにこう声を掛けてきたのてある。
「ほう、斎藤氏も選択でござるか。屯所の中に洗濯仲間が増えて、拙者嬉しゅうござるよ。」
見ると井上の駕籠の中には、斎藤のように自分の分だけでは無く、斎藤を除く全員分の洗濯物があるようなのだった。
「井上殿、拙者自分の者は自分で納得のいくまで洗わねば気が済まないだけでござるが、井上殿は他人の分まで毎日のように洗われて、まこと頭が下がりまする。」
井上は、洗濯を始めて褒められたらしく、ひどく嬉しそうにこう答えたのである。
「いやいや何の。拙者剣に自信が無いわけではござらんのですが、こういうことが性分に合っているらしくてな。皆がさっぱりとした服でいるのを見るのが、好きなだけでござるよ。」
そう言って、にこりともしないで同じ洗濯をしている斎藤の前で、井上は陽気に笑ったのであった。
話は力士襲撃事件の夜に戻るが、斎藤は直接関わら無かったものの、彼の持病が切っ掛けで大惨事となり、浪士組の評判にも拘わることとなってしまったのである。結局、後に駆け付けた土方が、会津の手代木達と相談し、力士側が会津藩の権力に負けて泣き寝入りすると云う形で、この件は決着がついたのだが、このことで浪士組の評判は、地に落ちてしまったのであった。
そんな八月十八日、所謂「八月十八日の政変」が起こり、壬生浪士組はそれに出動し、翌八月十九日出動の褒美として、松平容保から不名誉な壬生浪士組の名を止めて、古の会津の部隊の名「新撰組」を賜ったのである。その時隊内は、近藤達試衛館派と芹沢ら水戸派との派閥争いが激化し、水戸派からの誘いは、斉藤・沖田にまで及んでいたのだった。そこで副長土方は、局中法度なるものを考え、三局長にこれを承認させたのである。それは次のような内容であった。
一つ、士道に背くまじき事。
一つ、局を脱するを許さず。
一つ、勝手に金策致さざるべきこと。
一つ、勝手に訴訟取り扱いすべからざること。
一つ、私の闘争を許さず。
以上背き候者は、切腹申しつくべく候也。
この法度の決定により土方は、風紀の乱れきった水戸派を、このどうにでも解釈できる法律に違反したと言い張りさえすれば、どうどうと粛清出来る権利を得たことになるのだった。そこで九月十三日、この法度違反の容疑がほぼ固まったものとして、斉藤から長州の間者と疑いを掛けられていた局長の一人新見錦は、常用していた祇園の遊郭「山の緒」に一人遊んでいた所を、待ちかまえていた土方副長ら天然理心流派に囲まれ、士道不覚悟の名の元に詰腹を斬らされたのである。
その後水戸派と試衛館派との派閥争いは頂点に達し、斉藤の預かり知らぬことでは有ったが、水戸派は参謀格の新見錦を失ったことにより、土方の策に簡単にはまってしまったのだった。それは同月十八日、局長代表の芹沢鴨らは正体が無くなるほど飲まされ、帰って女と寝ている所を襲撃されたのだった。こうして所謂水戸派は、新撰組から排除されたのである。
次いで二十五日、次は我が身と悟った御倉伊勢武、荒木田佐馬之助の長州藩間者達は、逃げ出す前の駄賃にと、祇園の料亭一力に永倉と共に飲み、酔った所を襲い、首を取ろうと企んだのだった。得意の読心術で企みを知った斉藤は、新撰組の藤堂や永井十訣のやそ姫、こう、木又、漢升、勝蔵と共に現場に駆け付け、永倉達の飲んでいる座敷の前に立ちはだかり、襲撃に備えたのである。だが、やはり共に部屋にいなくては完全な警備は出来ぬので、斉藤は藤堂や木又と共に座敷の中の宴に参加し、後のメンバーは天井や物陰に隠れていたのだった。しかし、宴に彼が加わったことにより、暗殺を目論んでいた二人は警戒し、ついにその夜に事を起こすのを断念したのである。暗殺の中止をすばやく悟ったやそは、木又を副長の土方の元に走らせ、企みの全貌を知らせ、奴らが何をしでかすのか分からないことを告げたのだ。土方はその知らせを受け、夜明けと共に四人を消すことを決意し、まずは床山を二人呼んだのである。そして彼らが月代(さかやき)をあたらせている間に、後ろから刺して殺害しようとしたのだ。その役目に、斉藤と凄腕の隊士林新太郎、別室で待つ二人越後三郎と松井龍次郎を、沖田と藤堂が急襲することとなったのである。また、先日の斉藤の土方への報告にもあった楠小十郎と松永主計(かずえ)らは、いまだ確証がつかめぬままであった。そこで、原田らに同時刻にその同行を見張らせてあったのである。因みに永倉は、昨晩飲み過ぎて粛清の役目を果たせそうも無いので、メンバーからは外されてあった。斉藤は林と共に、最初に床山に髪をいじらせていた御倉伊勢武と荒木田佐馬之助のいる縁側に近付き、
「御倉君、荒木田君、気持良さそうだな。私達もやってもらおうかな。」
等と言いながら密かに後ろに近付いて脇差を抜き、
「御倉伊勢武君、士道不覚悟により処断致す。」
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊