永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
後ろに控えていた木又は、土方に図星をつかれ、見えない目玉を飛び出しそうにむき出しながら、こう答えたのである。
「さ、左様でございます。拙者、心眼にて目の見える者と変わらぬ積りでございましたが、やはり分かりますか?」
それを聞くと土方は、我が意を得たりと云った得意顔で笑いながら、こう最後に言ったのだった。
「やっぱりな。確かに目が見えなくても不自由はしてねえみたいだったが、目ん玉が一度も動いてなかったんでね。死人の斉藤でさえ、立ち上がる時は、目玉位下を向いてたぜ。質問ついでにもう一つ聞くが、お前さん、ただの小者じゃなかろう。第一、心眼なんかただ者に開けるもんじゃねえからな。察する所、お前さん、近藤さんから聞いた永井十訣の一人だろう。」
「ぎょ、御意にございます。」
土方の言葉に全てを見抜かれた木又は、ただただ恐れ入るばかりであった。
第二場御前試合
同年四月十六日、斉藤一達壬生浪士組の面々は、自分達のスポンサーとなってくれた松平容保達会津藩京都守護職が陣取る黒谷(くろだに)の金戒光明寺に行くこととなったのである。迎えには、壬生浪士組が会津藩預かりになる時世話になった公用人手(て)代木直右衛門(しろぎすぐえもん)が馬で来て、徒歩での出発となったのだった。寺に着くと、門番には似つかわしくない中間の目の鋭い男二人が門の前に立っていた。その内一人に向かって、手代木はこう言ったのである。
「仙吉(後の会津小鉄)、壬生浪士組の皆様がお着きだ。中の者に伝えて参れ。」
仙吉と呼ばれた男は、
「畏まりめえりやした。」
と答えると、寺の中に消えていったのだった。手代木は浪士組一行を寺の中庭に通すと、既に用意万端整っていて、中庭を見渡す寺の廊下には、松平容保が既に座って一同を待っていたのである。容保は一行が来たのに気付くと、床几から立ち上がって、こう言ったのだった。
「おう、浪士諸君、わざわざ御苦労であった。待ち兼ねておったぞ。」
容保は驚くほど若い男で、満面の笑みを浮かべた様子は、まるで少年のようであったのである。壬生浪士組一同は、自分達のスポンサーがこの若い殿様であることを初めて知り、失礼を忘れて驚いてしまい、しばし挨拶をするのが遅れてしまった程であった。手代木は、芹沢や近藤がその場に呆然と立ち尽くしているのを見兼ねて、ごほん、と一つ咳払いをしたのである。その咳に我に返り、一同はその場に平伏したのだった。芹沢はさすがに堂々としていて、容保に到着の口上を述べたのである。
「上様、お初にお目に掛かり申します。壬生浪士組一同、ただ今到着致しました。」
「あぁ、堅苦しい挨拶は良い、良い。すぐにでもそちらの妙技を見せてくれ。」
その後、芹沢によって一同は紹介されたのだった。そして手代木の口から、今日の対戦カードが発表されたのである。
「初戦、副長土方歳三対伍長藤堂平助。二試合目、伍長永倉新八対同じく伍長斉藤一。三試合目、伍長平山五郎対伍長佐伯又三郎。四試合目、総長山南敬助対伍長沖田総司。」
もっとも、組み合わせは手代木が、あらかじめ芹沢・新見・近藤の三局長に相談して決めたことなので、その組み合わせは事前に参加者に伝えてあったものであった。この場合の御前試合は、壬生浪士組の剣の技量の高さを示すことが目的なので、どちらが強いか決めるよりも、型を示すという程ではないが、互いの技量が見ている者に伝わるように出来るだけ試合を長引かせ、最後は勝負無し、あるいは木刀による寸止めで相討ちで終わるのが理想であったのである。よって腕が互角と見做され、なおかつ普段から稽古を繰り返している親しい者同士が選ばれ、出来るだけ自然にそういう結果に終わることが望まれていたのだった。またそれと同時に、対戦者同士がある程度試合の運びを相談しておくことが不可欠であったが、斉藤、永倉の間ではその時、次の様な会話が交わされていたのである。
「斉藤さん、今度我らは御前試合をすることとなった。宜しくお願いする。そこで相談なのだが、他の者は兎も角、我らは真剣に立ち会わぬか。どうもわしは、そういう芝居のようなことは苦手でな、お互い、怪我をしたりさせたり、勝ったり負けたりは恨みっ子無しで、存分に戦いたいのだが、お主はどう思うかね。」
斉藤は例によって、無表情のまま、こう答えたのであった。
「承知。私も役者ではありませんから、筋書きのある立ち合いは望んでいませんでした。やりましょう。」
と答えた斉藤であったが、やはり利き腕は使う気は無く、負けるなら負けても良いと思っていたのである。
京都守護職の見守る中、試合は始められたのだった。第一試合の土方と藤堂は名演技で、互いの技量を時間一杯まで見せ、第一試合は当然の如く引き分けに終わり、見ている方も暗黙の了解があるので、それが当然のこととして試合は続けられたのである。続く第二試合、いよいよ斉藤と永倉の番であった。防具は最低限で面は付けず、お互いに礼をしてから蹲踞して試合は、審判の近藤の、
「始め。」
の掛け声で開始されたのである。すると、永倉はいきなり捨て身の飛び込みを見せ、激しい鍔迫り合いとなったのだった。そんな中でも、斉藤は永倉の動きがスローモーションの様に見え、自らは攻撃を仕掛けず、もっぱら受けに集中していたのである。長い鍔迫り合いの中、突然斉藤の脳裏に、永倉の強い思いが稲妻の如くひらめいたのである。
『このままでは埒が明かぬ。後は捨て身の突きしか無い。』
永倉の攻撃が一層激しくなったかと思うと、次の瞬間、彼は後ろに飛んで斉藤から離れ、捨て身の諸手突きを放ったのである。斉藤はそれに対し、一瞬で自らも諸手突きを放ち、永倉の刃を立てた突きに対して斉藤は平突きだったので、二つの木刀はその切っ先で十字に交差して、バチッと鋭い音がしたかと思うと、二つの木刀は先から二つの避けていたのだった。
「それまで。両者引き分け。」
と近藤が言い、二つに裂けた木刀を持って呆然とする永倉、無表情の斉藤を尻目に、勝負は終わったのである。二つの剣が裂けた瞬間、有り得ぬ光景に、見ていた者は皆思わず、ほぉーと声を出してしまったのであった。斉藤は、万法帰一刀の奥義によって、必殺の左片手突きをすれば当然勝てた勝負ではあったが、それまで同志にまで隠していた左利きが、完全に露見してしまうので、こうせざるを得なかったのである。試合終了の礼をしても、まだ信じられないと云った顔をした永倉は一言、
「まこと無敵の剣だな。」
と呟いたのだった。
その夜、島原の料亭で会津藩が開いてくれた慰労会でも、二人の試合の話で持ちきりであった。まずは局長筆頭の芹沢自らが徳利を持って永倉と斉藤に酌をしながら、こう言ったのである。
「まったくご両人の力量には恐れ入った。この芹沢、これまで様々なものを見聞してきたが、自らの所業以外で、これ程凄まじいものは初めて見た。驚いて口を開けたままの会津の殿様の顔が今でも目に焼き付いておるわ。壬生浪士組局長筆頭として、あの時ほど鼻が高かったことは無い。わははは。」
すると、横からスポンサーの会津藩の手代木も徳利を持って出てきて、こう言ったのだった。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊