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永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)

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 また一は、座る時は必ずすべて「正座」することを義務づけられていた。江戸時代の人間は一般的に正坐を苦にしなかったが、特に刺客を生業とするものは正座の訓練を欠かさないのである。それは、刺客の獲物はだいたいが身分の高い人物となるわけだが、そういった人間に近づくためには、その前で正座をする可能性も非常に高かったからなのだ。そしていざ刺客の仕事をせんとする時、足がしびれて動けないでは済まない。よって一(はじめ)もまた、その後の人生におけるあらゆる場面において正座を崩すことはなく、それは晩年、大往生をする時にまで守られたのだった。
 因みに、さらに変わった忍者の習慣と言えば入浴と洗濯だったろう。当時特に男性は、これらを軽視する傾向にあり、男性臭さとそれが混同されていた節さえあるのだ。この習慣の理由は、体臭や汚れた着物の匂いが相手に自分を印象付けてしまい、人に対してすぐ忘れられるような無印象であることが忍者の人となりの基本であることに反するからである。また、犬による探索の効果を、半減させる効果もあったのだ。
故に彼は、可能な限りにおいて毎日の入浴と最低下帯(男性用の下着)の洗濯は欠かさなかったのであった。
 武芸の師匠である斎藤平兵衛の流儀は、「無外流」である。「無外流」は、元禄の御世、流祖辻無外の編みだした流派だ。「気功術」を剣術に利用した無敵の奥義を十も持っていたのである。その奥義とは、獅子王剣、翻車刀、玄夜刀、神明剣、虎乱入、鳥王剣、水月感応、玉簾不断、相無剣、万法帰一刀の十であった。だが流祖の死後、「気功」の才のある跡継ぎに恵まれず、せっかくのそれらの奥義は失われてしまっていたのである。無外流を密かに庇護していた「加納藩」の剣道指南役斎藤平兵衛は、元禄の時からの藩命で、失われた奥義の復活を目指して精進してきたのだった。因みに彼は、永井三十忍の一人でもある。その結果、ついに十の内九つまでは会得することが出来たのであった。そしてさらに彼は、最後の奥義の会得を息子の一(はじめ)に託し、十になった時から、彼の数えで奥義の伝授を始めたのである。その才は尋常では無く、それからわずか五年で、彼は平兵衛と同じ九つの奥義を身につけてしまったのだった。残る奥義は後一つ。この最後の奥義の会得と、斎藤平兵衛が実の息子を里親に出しながら自ら剣の指導をすることと何か関係はあるのか、それは間もなく知れる。
第二場 十五年後
 あれから十五年後。安政六年元旦。三年前の大地震の傷跡もようやく癒えたかと思う間もなく、黒船騒動、安政の大獄と何やら暗雲漂う江戸の町も、正月と言うことで一時の平穏を楽しんでいるかのようであった。そんなやや浮ついた町の中を、三人の者が歩いている。場所は十五年前、山口祐助が赤子を預かった弓町に面した隅田川沿いの道であった。三人は何やら落ち着かぬ様子で、回りを何度となく見回しながら歩いている。一人は身の丈五尺程の娘で、やせ形で腰が高く、当時としてはかなりすらりとした方ではなかったか。顔立ちは化粧気こそ無かったが、驚くほど整っており、正月で道行く女性が艶やかなのが珍しくもない中、地味な旅姿をしていなければ、かなり周囲の視線を集めたものと思われるのだ。その女性のお付きと見える女は身の丈四尺程、当時の女性の平均身長程であったが、相方の背が高い為か事実以上に背が低く見える。容貌は美形と言う程では無かったが、丸顔で目が大きく、熱い唇でいつも笑っているような表情は、所謂愛嬌があると言うのか、誰にでも好感を持たれる人となりと思われたのである。その格好は職人か工人の下働きといった風であった。そしてもう一人、旅姿の中年の町人といった風情の者がいた。身の丈は先の女性よりもさらにあり、六尺程もあって、やせて見えたが、時折見せる二の腕はしきしまった筋肉質である。傘を被っていたので外からは良く見えないが、顔はりりしく、骨ばっていた目は細く鋭かった。実は彼女は女性なのだが、背の高い方の女性を守るような身のこなしをしている。見ると、背の低い方の娘が、盛んに相手に甲高い声で話しかけ、若衆風の者は、うなづくだけでほとんど口をきいていないようであった。
「姫様、やそ姫様。方角はこちらで良かったのでございましょうか? やはり手分けをした方が良かったのでは。 ねっ、おこうもそう思うでしょ。」
 やそ姫と呼ばれた娘は、その整った顔の眼を真剣に見開きながら、すかさずこう答えたのである。その話し方は、「姫」と言う呼び方にはおよそ似つかわしくなく、まるで侍のようであった。また、話しかけられたおこうという若衆風の者は、軽くうなずくだけなのだった。
「お芳、そのような暇はあるまい。山口殿に確かめたのだからこちらで良いはずだ。あっ、あれではないか?」
 そう言って姫が指さす先には、正月早々河原で真剣を抜いて向き合う二人の侍の姿があったのである。ただ、そこはちょうど橋の下に辺り、通行人からはいささか見えにくい場所にあった。芳と呼ばれた少女のような娘は、小さな声で驚きの声をあげたのである。
「いた、いた。でも姫様良くお気付きになりましたねえ。でももう刀を抜いてらっしゃるから早く行かないと間に合いませんよ。ここから…あっ姫様!」
「おこう、お芳、行くよ。」
 芳がすぐそこにある河原への降り口を使おうという間もなく、姫はひらりとその場から河原に降り立ち、音も立てなかったのだ。そしておこう、芳もまた、遅れて姫の後を追ってその場を飛び、やはり音も立てずに河原に着地したのである。
 河原で立ち合っている二人は、三人の女が自分達のすぐ近くに飛び降りたにも関わらず、まるで意に介していないようで、お互いを睨み合っていた。三人の娘は河原に立つと、それ以上何もすることもなく、二人のちょうど真ん中に離れて立ち、その様子を窺ったのである。一人はちょうどあの十五年前、自らの子息を山口祐助と言う男に託した斎藤、斎藤平兵衛と言う初老の男で、相変わらずの総髪に、いかにも剣術使いらしい着物に襷掛けと言う出で立ちで、正眼に構えていた。身の丈は五尺半はあろうか、当時として大男の部類に入ろう。体格は着物に隠されて分かりづらいが、痩せているとはいえ、胸板厚くいかり肩で、筋肉質であるようである。相手の男はみるからに若く、恐らくはつい最近剃ったであろう青々とした月代に、これもまた仕立てたばかりと見受けられる糊のきいた着物をさっそうと着て、やはり正眼に構えていたが、身の丈、顔立ち等相手の初老の男に良く似通っていたのだった。三人の娘が傍に立っているにも関わらず、二人の侍は話を構わず続けているようである。まず聞こえたのは、若侍の方であった。
「師匠、どうしても真剣で立ち合わねばならぬのですか?」
 師匠と呼ばれた斎藤平兵衛は、そう問われてこう答えたのである。