永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
第一幕誕生 第一場 捨て子
時は江戸の幕末、弘化元(一八四四)年正月二日昼過ぎ、江戸の中心本郷弓町の地に、鍛冶屋手伝いで生計を立てていると称する御家人「山口祐助」の粗末な家に、網傘を被った一人の虚無僧が訪ねてきたのである。虚無僧の腕の中には、似つかわしからぬ産まれたばかりかと思われる赤子が抱かれていたのだった。家の戸口に彼が立つと、まるで現在の自動扉のように音もなく戸が開いたのである。
「斎藤様、お待ちしておりました。」
出てきたのはこの家の主人、山口祐助その人であった。斎藤と呼ばれたその男は、抱いていた赤子を危なげにさしだしながら、こう言ったのである。
「うむ山口殿、これが例のあの赤子だ。名は、元日に生まれたこともあり、一(はじめ)と名付けよう。それに一字の名は将来の剣豪にふさわしいではないか。今日よりその方の次男として育てていただくぞ。」
祐助はその子を受け取り、その時ちょうど出てきて、軽く斎藤に会釈をした妻のますに渡したのだった。ますは後ろを向いて、すぐに赤子に乳を与え始めたのである。山口祐助は、さらにこう答えたのだった。
「かしこまってございます。ただ、一つお聞きしてもよろしゅうございますか?」
「何だ。」
「斎藤様は、ご内儀様のお弔いがお済みになりましたら、これより江戸にお住いになるおつもりなのでございましょう?」
「あぁ、お主の雇い主と言うことになっておる小石川の川井殿の所に御厄介になろうと思っておる。」
「ならば」
と言ってから、祐助は少し躊躇してから、思い切ってこう続けたのである。
「一様がもの心がついて、手がかからなくなりましたら、実の父上の元に戻るのが筋ではございませぬか? もしそうなら、私どもはあくまで里親ということにいたし、斎藤様はお暇がある時にこちらにいらっしゃって、父子の時間をお過ごしになってはいかがでございますか。こちらとしては一向にそれでも構いませぬし、一様にとってはその方が良いに決まっていると存じます。」
それに対し斎藤は、こう言われても相変わらずの無表情のままこう答えたのだった。
「そうか、お主もそこまでは聞いておらぬか。さもありなん。拙者がそなたに一(はじめ)を託すのは、妻が産後の肥立ちが悪く儚くなってしまい、赤子に飲ます乳のあてが無いからだけではないのだ。例え妻が顕在であったとしても、一(はじめ)が物心つく前にはお主に託していたはず。その理由については…、今は言えぬがやがては分かることだ。とてもではないが、今かいつまんで話す気にはなれぬ。とにかく、もう一度念を押しておくが、これより一(はじめ)はあくまでそなたの実子として育ててもらい、わしのこの子の剣の師匠ということでこの子と関わりをもってゆこうと思う。よろしいな。」
「はあ。」
祐助はまだ腑に落ちぬ体ではあったが、相手が事情をまったく話すつもりがないが無いと判断し、自らを無理矢理納得させてうなづいたのである。
斎藤は祐助のそんな気持ちを知ってか知らずか、こう言い残してそそくさとその場を離れるのだった。するとそれまで大人しくすやすやと寝ていた赤子が、急に火がついたように泣き出したのである。祐助の妻ますは、
「どうしたの、ほらいい子、いい子。」
と必死にあやすのだった。それを見た祐助は、やはり分かるのだなあ、と誰も聞こえないような小さな声でつぶやいたのである。
正月早々生まれたばかりの赤子を預かった男、山口祐助の山口家は、代々江戸永井旗本家八千石に仕える隠密、伊賀者だった。彼らは永井三十忍と言われていたのである。永井家は小さな藩だったので、他藩から有能な忍びを集めて雇ったりもしたのだ。祐助の代になり、姫路藩酒井家を探るための仕事をしていたが、川越藩の女忍び、ますとの婚礼を機に江戸詰めとなって、隠密達の情報交換をする場を提供するお役目を果たすこととなったのである。一方赤子を彼に預けた男、斎藤平兵衛は、美濃国加納藩の永井家の剣道指南役を務めていた者だった。事情があって子をなしても育てられない妻のことを考えて、最初から子をなしたばかりの山口祐助の妻をあてにしてはるばる江戸まで来ていたのである。そう、祐助には偽りを述べたが、実は妻は健在だったのだ。ただ、永井三十忍と呼ばれる程人材の多い加納忍群の中で、特に山口祐助が赤子の里親に選ばれたのは、むろん赤子を産んで間近い妻がいるから、と言うだけでは無いのである。
まず第一に、彼には「死人(しびと)暗示」と言う特技があったのだ。一(はじめ)と名付けられた赤子は、山口家に預けられたその瞬間から、この暗示を子守歌のようにかけられたのである。この暗示は、ひたすらその者に、
「疲れて苦しくなく、空腹にて食欲もなく、傷ついて痛くなく、死しても恐怖なし。」
と催眠術をかけるのだった。さらにそれを自ら出来るように仕込み、それが完成すれば、いかなる修行を積もうともくじけることなく全うでき、全身の自律神経までも自在に出きるようになるというのである。一がもの心ついてからは、朝起きるとすぐに自分で自分にこの暗示をかけるようになったのだった。
暗示をかけ終わると、まずは冬は駆け足、夏は水術と、体力をつけることを行い、それから朝食を取ったのである。朝食に限らず食事が済んだ後は、必ず座禅を組んだのだった。ただ精神統一が目的なだけではない。体内に「気」のエネルギーを溜め、それを自在に扱えるようになる為の大切な訓練であったのだ。「気功術」は、ほとんど生まれついての才能である。幼い頃にそれが出来なければ、生涯出来ることはないのだ。幸い一(はじめ)は信じられぬ程の天賦の才を見せ、圧倒的な気功の力を発揮したのである。食事の消化が終われば、小石川の鍛冶屋から通ってくる斎藤平兵衛が、午前一杯稽古をつけるのだった。それは剣術だけでなく、素手による拳法や弓などの道具を使ったものなど、いわゆる武芸百般に及んだのである。昼食後、座禅を済ました後、読み書きを始めとする学問から、忍びの心得、薬草の知識など、ありとあらゆる耳学問を山口祐助から習う時間となる。こうした忍術全般の習得をしていることもまた、山口祐助が一(はじめ)の里親となったもう一つの理由なのである。早い夕食を済ませると、三度目の座禅の後、夜目を鍛える為の夜間訓練を、やはり山口祐助の指導で行ったのだ。
その他風変りな修練の一つに、飲酒がある。酒は幼い時から食べ物に混ぜられ、ほとんどの忍びは元服の前までに既に立派な大酒飲みとなっているものだが、一(はじめ)もまた例外では無かった。永井忍群は刺客を生業とはしていたが、太平の世、そうそうそんな仕事の依頼がくるわけではない。忍の主な仕事と言えば、やはり情報収集なのだった。情報収集と言えば、他人の家に忍び込むのよりむしろ、酒を飲ませてしゃべらせるのが遥かに効率的である。その時、相手を酔わせて自分はあくまで正気を保っていなければ仕方ないのだ。よって忍は、誰もが幼い時より飲酒の訓練を受けるのである。
時は江戸の幕末、弘化元(一八四四)年正月二日昼過ぎ、江戸の中心本郷弓町の地に、鍛冶屋手伝いで生計を立てていると称する御家人「山口祐助」の粗末な家に、網傘を被った一人の虚無僧が訪ねてきたのである。虚無僧の腕の中には、似つかわしからぬ産まれたばかりかと思われる赤子が抱かれていたのだった。家の戸口に彼が立つと、まるで現在の自動扉のように音もなく戸が開いたのである。
「斎藤様、お待ちしておりました。」
出てきたのはこの家の主人、山口祐助その人であった。斎藤と呼ばれたその男は、抱いていた赤子を危なげにさしだしながら、こう言ったのである。
「うむ山口殿、これが例のあの赤子だ。名は、元日に生まれたこともあり、一(はじめ)と名付けよう。それに一字の名は将来の剣豪にふさわしいではないか。今日よりその方の次男として育てていただくぞ。」
祐助はその子を受け取り、その時ちょうど出てきて、軽く斎藤に会釈をした妻のますに渡したのだった。ますは後ろを向いて、すぐに赤子に乳を与え始めたのである。山口祐助は、さらにこう答えたのだった。
「かしこまってございます。ただ、一つお聞きしてもよろしゅうございますか?」
「何だ。」
「斎藤様は、ご内儀様のお弔いがお済みになりましたら、これより江戸にお住いになるおつもりなのでございましょう?」
「あぁ、お主の雇い主と言うことになっておる小石川の川井殿の所に御厄介になろうと思っておる。」
「ならば」
と言ってから、祐助は少し躊躇してから、思い切ってこう続けたのである。
「一様がもの心がついて、手がかからなくなりましたら、実の父上の元に戻るのが筋ではございませぬか? もしそうなら、私どもはあくまで里親ということにいたし、斎藤様はお暇がある時にこちらにいらっしゃって、父子の時間をお過ごしになってはいかがでございますか。こちらとしては一向にそれでも構いませぬし、一様にとってはその方が良いに決まっていると存じます。」
それに対し斎藤は、こう言われても相変わらずの無表情のままこう答えたのだった。
「そうか、お主もそこまでは聞いておらぬか。さもありなん。拙者がそなたに一(はじめ)を託すのは、妻が産後の肥立ちが悪く儚くなってしまい、赤子に飲ます乳のあてが無いからだけではないのだ。例え妻が顕在であったとしても、一(はじめ)が物心つく前にはお主に託していたはず。その理由については…、今は言えぬがやがては分かることだ。とてもではないが、今かいつまんで話す気にはなれぬ。とにかく、もう一度念を押しておくが、これより一(はじめ)はあくまでそなたの実子として育ててもらい、わしのこの子の剣の師匠ということでこの子と関わりをもってゆこうと思う。よろしいな。」
「はあ。」
祐助はまだ腑に落ちぬ体ではあったが、相手が事情をまったく話すつもりがないが無いと判断し、自らを無理矢理納得させてうなづいたのである。
斎藤は祐助のそんな気持ちを知ってか知らずか、こう言い残してそそくさとその場を離れるのだった。するとそれまで大人しくすやすやと寝ていた赤子が、急に火がついたように泣き出したのである。祐助の妻ますは、
「どうしたの、ほらいい子、いい子。」
と必死にあやすのだった。それを見た祐助は、やはり分かるのだなあ、と誰も聞こえないような小さな声でつぶやいたのである。
正月早々生まれたばかりの赤子を預かった男、山口祐助の山口家は、代々江戸永井旗本家八千石に仕える隠密、伊賀者だった。彼らは永井三十忍と言われていたのである。永井家は小さな藩だったので、他藩から有能な忍びを集めて雇ったりもしたのだ。祐助の代になり、姫路藩酒井家を探るための仕事をしていたが、川越藩の女忍び、ますとの婚礼を機に江戸詰めとなって、隠密達の情報交換をする場を提供するお役目を果たすこととなったのである。一方赤子を彼に預けた男、斎藤平兵衛は、美濃国加納藩の永井家の剣道指南役を務めていた者だった。事情があって子をなしても育てられない妻のことを考えて、最初から子をなしたばかりの山口祐助の妻をあてにしてはるばる江戸まで来ていたのである。そう、祐助には偽りを述べたが、実は妻は健在だったのだ。ただ、永井三十忍と呼ばれる程人材の多い加納忍群の中で、特に山口祐助が赤子の里親に選ばれたのは、むろん赤子を産んで間近い妻がいるから、と言うだけでは無いのである。
まず第一に、彼には「死人(しびと)暗示」と言う特技があったのだ。一(はじめ)と名付けられた赤子は、山口家に預けられたその瞬間から、この暗示を子守歌のようにかけられたのである。この暗示は、ひたすらその者に、
「疲れて苦しくなく、空腹にて食欲もなく、傷ついて痛くなく、死しても恐怖なし。」
と催眠術をかけるのだった。さらにそれを自ら出来るように仕込み、それが完成すれば、いかなる修行を積もうともくじけることなく全うでき、全身の自律神経までも自在に出きるようになるというのである。一がもの心ついてからは、朝起きるとすぐに自分で自分にこの暗示をかけるようになったのだった。
暗示をかけ終わると、まずは冬は駆け足、夏は水術と、体力をつけることを行い、それから朝食を取ったのである。朝食に限らず食事が済んだ後は、必ず座禅を組んだのだった。ただ精神統一が目的なだけではない。体内に「気」のエネルギーを溜め、それを自在に扱えるようになる為の大切な訓練であったのだ。「気功術」は、ほとんど生まれついての才能である。幼い頃にそれが出来なければ、生涯出来ることはないのだ。幸い一(はじめ)は信じられぬ程の天賦の才を見せ、圧倒的な気功の力を発揮したのである。食事の消化が終われば、小石川の鍛冶屋から通ってくる斎藤平兵衛が、午前一杯稽古をつけるのだった。それは剣術だけでなく、素手による拳法や弓などの道具を使ったものなど、いわゆる武芸百般に及んだのである。昼食後、座禅を済ました後、読み書きを始めとする学問から、忍びの心得、薬草の知識など、ありとあらゆる耳学問を山口祐助から習う時間となる。こうした忍術全般の習得をしていることもまた、山口祐助が一(はじめ)の里親となったもう一つの理由なのである。早い夕食を済ませると、三度目の座禅の後、夜目を鍛える為の夜間訓練を、やはり山口祐助の指導で行ったのだ。
その他風変りな修練の一つに、飲酒がある。酒は幼い時から食べ物に混ぜられ、ほとんどの忍びは元服の前までに既に立派な大酒飲みとなっているものだが、一(はじめ)もまた例外では無かった。永井忍群は刺客を生業とはしていたが、太平の世、そうそうそんな仕事の依頼がくるわけではない。忍の主な仕事と言えば、やはり情報収集なのだった。情報収集と言えば、他人の家に忍び込むのよりむしろ、酒を飲ませてしゃべらせるのが遥かに効率的である。その時、相手を酔わせて自分はあくまで正気を保っていなければ仕方ないのだ。よって忍は、誰もが幼い時より飲酒の訓練を受けるのである。
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊