永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記)
それから半年の後、激しい修行の成果が実り、九人は首尾よくお目当ての無外流奥義を会得することが出来、それぞれに新たなる任務を与えられることとなった。まず幾島は、天璋院となった篤姫をお守りするため、大奥へと戻っていったのだった。次におこうは、斎藤平兵衛の一周忌に先立ち、川合久幸の家に預けられたままであった彼のお骨を持って、岐阜の加納にある墓に葬る役目を申し出て許されていたのである。もっとも彼女が平兵衛とどういう関係であったのかは、知らぬ者へ新たに知らされることは無かった。川井亀太郎は、鍛冶の仕事を変わらず江戸で続け、水戸とのつなぎの役目を果たしていたのである。三十三元堂の漢升こと吉田勝見、馬借の勝蔵、猿曳きの木又、高木時尾の四人は、京都にある吉田の「太子流道場」に潜伏し、井伊側の様子を探ることとしたのだ。山口一とやそは、若夫婦と言う触れ込みで山口祐助の家に厄介になることとなったが、一(はじめ)は、市ヶ谷にある天然理心流の試衛館に入門し、その道場主たる「近藤勇」とその門弟達の人となりと剣の実力を探るように申しつけられていたのである。もうその頃になると、一(はじめ)もやそのつきそい無しでこのお役目をこなせるようにまで回復していたのだ。
ところで暗器のお芳だが、彼女の元には何と山口近江守直邦がじきじきに指令を与えに来ていたのである。夕暮れ時だったが、芳は鍛冶場では障りがあるとかなんとか口実をつけ、近江守を連れだって、隅田川の河原へといざなったのだ。河原の土手に二人はまるで逢引きでもするかのように隣あって座ったのである。 「お久しゅうございます、近江守様。」 「うむ、そうだな。ところで、次のお主の任務なのだが。」 「「何でござりまするか。」 「うむ。かねてよりの手筈が整った。いよいよ一橋邸に、奥女中として乗り込むこととあいなろう。明日にも発つので、用意をしておくように。」
「分かりました。慶喜様を垂らし込んで、愛妾におさまればよろしいのですね。」
「いや、お主が気がすすまなければ、奥女中のままでも構わぬのだぞ。」
「いいえ、そんなことはございませんが、ただ…」「ただ?」 「愛する女にそんな指令を自らお届けになられるとは、どういうお積りなのだろうと思案していただけでございます。」
近江守は心の中で思っていた。『これが噂に聞くお芳の男たらしか。拙者は女忍びをさんざん使ってきたが、自分にその技を使われるのは初めて。とても適いそうにない。』
「どうかなされましたか。近江守様。」 「い、いや、何ともない。」 「ねえ近江守様あ。」 「何だ。」 「二人きりの時は、直邦様ってお呼びしてもよろしゅうございますか。」
「うむ。ただし、二人っきりの時だけじゃぞ。」 「分かってますよー、な・お・く・に・さ・ま。ねえ、直邦様、直邦様は、芳が直邦様をからかっているとお思いなのですか?」 「いっいや、ただ拙者には妻も子もおる故、そなたの好意に答えるわけには参らぬのじゃ。」 「そんなこと分かっています。たた芳は、一様とやそ様のことをお側で見ていてうらやましくなってしまっただけなんです。」 「あの二人はうまくいっているのか?」 「大丈夫ですよ。この芳が介添女(かいぞえおんな)として見届けましたから。」
「お主はその若さで介添え女など務められるのか?」
「若いと言っても、もう二十歳を過ぎました。廓に上がったのは十二の時ですから、八年の大年増でござりますよ。」 「こんなことを聞いて良いのか分らぬのだが。」 「よろしゅうございますよお。直邦様なら何をお聞きなすっても。」
「お主は、侠客とは言え、江戸随一の親分新門辰五郎の娘でありながら、何故にこのようないらぬ苦労をせねばならぬのだ?」 「さてねえ、何故なんでございましょうねえ。お父っあんも上野の黒鍬者とも親しくつきあっておりましたから、その関係でござんしょう。何しろあちきは物心ついた時には加納で忍び修行をしておりましたし、十二になって江戸に戻されたと思ったら、いきなり吉原ですからねえ。まったく何のことやら分からないまま、何人もの男があちきの身体を通り過ぎて行って、何を疑うこともなく、男と女っていうのはこんなもんだと高あくくっておりやした。それが…。」 「あの二人を見て了見が変わったか?」 「さいざんす。やそ様の、あの一途に一様を思う様子を見ていたら、何だか自分のやってきたことが急に汚らしく思えてきやしたんでござんす。さらに、ひどく寂しくなってきやした。芳には、身体目当ての男以外に誰もいない。誰も好きになった者もいないって。」 「それで何でわしなのだ。」 「そんなことは分かりゃしまへん。何しろあちきには男衆に惚れたのなんざ初めてござんすから。でも、直邦様なら。」 「わしなら?」 「直邦様なら、芳のこと、心で見てくれてるような気がして。」
作品名:永井十訣(新撰組三番隊長斎藤一一代記) 作家名:斎藤豊