てのひらの魔法
陽穂は朗らかに笑って言った。巴月がありがとうと口にして、差し出された二羽の折り鶴の内一羽を受け取ると、受け取った巴月以上に嬉しそうな顔を、陽穂は満面に浮かべた。巴月は今でもその時の陽穂の顔を鮮やかに思い出す事ができる。それ以来、陽穂は毎日何かを掌に包んで持って帰って来る様になった。時には、友達と探したという四つ葉のクローバーを、時には、帰り道に咲いていたという小さな花を、時には、美味しいからと分けてもらったというお菓子を、陽穂は毎日、必ず巴月と陽穂の二人分を大切そうに掌に包んで持って帰って来る。巴月もその度に喜んで陽穂が持って帰って来る物を受け取った。そうして、巴月はいつしかそれを胸の内だけで陽穂の掌の魔法と呼ぶ様になり、現在に至る。陽穂の掌の魔法は、閉ざされた世界で鬱屈する巴月の心に温かな灯を点し、緩やかに癒した。陽穂が掌の魔法を伝えてくれるのが、巴月の楽しみになっていた。毎日陽穂が帰って来るのを心待ちにし、その時間が近付くと普段は見向きもしない時計とにらめっこを繰り返した。巴月の喜ぶ顔を見たいからと毎日大切そうに魔法を運び、それを伝えてくれる陽穂を何よりも愛おしく思う。ありがとう、というたった一言の短い言葉だけでは、とてもではないが感謝し尽くせない。そして、巴月は魔法を伝えてもらうばかりで何一つとして返す事が出来ないでいる自分を気に病んでもいるのだった。勿論、陽穂自身は見返りを求めている訳ではないのだから、そんな事は露程にも気に留めてはいないだろう。巴月がそんな事を気にしている事自体、夢にも思っていないかもしれない。しかし、実際巴月は陽穂の掌の魔法を嬉しく思う反面、受け取るばかりで何のお返しも出来ないでいる自分を後ろ暗く思ってもいた。巴月は掌で紅く輝く二つの飴玉を眺め、愛おしむ様に指先でそっと撫でると、極短い嘆息を、一度だけこっそりと零した。
「つきちゃん、お待たせ!」
そのすぐ後に、今度はちゃんと扉から陽穂が入って来た。お気に入りの水色のランドセルは部屋に戻って置いてきたらしく、背中には何も背負ってはいない。巴月は慌てて蟠る懸念を振り払い、戻って来た陽穂におかえりなさいと微笑んだ。陽穂はすぐにはベッド脇に寄らず、開け放したままの窓に近づいてそれを閉め、その足でベッド脇に立った。きちんと手を洗ってきた証として、胸の前に開いた両手を掲げてみせる。にっと笑った歯の隙間から、清涼な香りが漂う。嗽薬で嗽も済ませてきたらしい。巴月は陽穂に頷いて、預かっていた紅い飴玉を差し出した。陽穂はベッドの縁に腰掛け、巴月の掌からころりと並ぶ二つの飴玉の内、一つを摘まんでビニールの包装を開けると、いただきますと口にするや否や開いた口に飴玉を放り込んだ。大きめの紅い飴玉は、その大きさから口に含んだ陽穂の右頬を不自然に丸く膨らませた。その様子が陽穂のあどけない顔に妙に似合っていて、巴月は思わずくすりと笑みを漏らした。何故巴月が笑ったのかが分からず、陽穂は不思議そうに首を傾ける。巴月は緩々と首を横に振り、何でもないと示した。そう?と陽穂は腑に落ちない様子で、猶も首を傾ける。が、取り敢えずはきょとんとした視線だけをそのままに、特に追及する風でもなく飴玉を舐め続けている。舌で転がされた飴玉が、陽穂の口の中でころりと音を立てて、右頬から左頬に移った。文字通り飴玉を頬張る陽穂を巴月が眺めていると、食べないの?と陽穂が飴玉を口に入れたままもごもごと尋ねた。本人が喋りづらそうにしている為に尋ねた言葉は酷く聞き取り難かったが、陽穂の表情と声音から、何となくそう尋ねたのだろうと察した。巴月が陽穂を眺めるばかりでいつまでも飴玉を食べようとしないので、巴月は飴が苦手だったろうかと、眉根を寄せて露骨に不安そうにしている。巴月は急いで掌に乗せたままの飴玉の包みを開け、いただきますと声にしてから口に含んだ。甘酸っぱい苺の香りと味が、口一杯に広がる。やはり大きめの飴玉を口の中に収めて舐めるには難しく、ころころと舌で転がして持て余す。ころりと右頬に移動させれば、それを見た陽穂がきゃらきゃらと声を上げて笑った。恐らく今の巴月の右頬は、陽穂の頬同様に不自然に丸く膨らんでいるのだろう。静かな部屋に、ころころと飴玉を転がす音が響く。態と歯列をなぞらせ、ころころと音を鳴らして舐める陽穂に、巴月の頬が緩む。口に含んだ飴玉が邪魔をして上手く口を利けない為、二人で笑みだけを交わし合った。やがて、丹念に舌で転がした飴玉は徐々に溶けてその大きさを縮小させていき、漸く口の中に収まる程度に馴染んできた。陽穂がころころと飴玉を転がす音も、最初の音と比べて細く、高くなりつつある。陽穂は巴月よりも忙しなく飴玉を転がしていたので、巴月が口にしている飴玉よりは、陽穂の口の飴玉の方が小さくなっているのだろう。それまでころころと飴玉を転がす音を響かせていた陽穂の口から、唐突に、がり、と鋭い音が聞こえた。そうかと思うと、そのままがりがりと音を立てて陽穂が口を上下に動かし、小さくなった飴玉を噛み砕き始めた。巴月が呆気に取られて見ている内に少しずつ音の間隔が開いていき、遂には音は聞こえなくなった。飴玉を噛み砕いて食べ終えた陽穂が、悪戯っ子の様に笑う。目をぱちくりと瞬かせていた巴月も、つられて笑った。程無くして、巴月の小さくなった飴玉も舌の上で完全に溶けて無くなり、ご馳走様でした、と巴月が手を合わせた。陽穂も慌ててそれに倣って手を合わせ、ご馳走様でした、と口にした。
「優しいおばあちゃんで、良かったわね」
まだ口の中に残る甘酸っぱい余韻を味わいながら、同じ様に満足気な表情を浮かべている陽穂に言う。陽穂は嬉々として一度大きく頷いた。その丸い小さな頭に徐に手を伸ばし、そっと撫ぜる。掌で頭の輪郭をなぞる様にして緩やかに撫でれば、陽穂は気持ち良さそうに目を細めた。その姿はさながら猫の様で、今にもごろごろと甘えて喉を鳴らしそうな陽穂に、巴月は静かな笑みを落とす。
部屋に差す西陽が傾いていく。日中のそれと比べて突き刺すでもない柔らかな光は、部屋と二人を穏やかに満たす。時を刻む音さえ噤んだ部屋に、ただ巴月が陽穂の髪を撫で、時に指先で梳く繊細な音だけが響く。心地良い静寂の中に、目を閉じて身を委ねた。陽穂の細い髪の感触を頼りに掌を、指を動かしていると、不意に陽穂が呟いた。
「つきちゃんの掌は、魔法みたいだね」
え、と巴月が目を開いて陽穂を見ると、陽穂はとろんと細めた目のまま繰り返した。
「つきちゃんの掌はね、魔法みたいなの」
その声も、何処か夢見る様にぼんやりとしている。
「私ね、つきちゃんに撫でてもらうのがとっても好きなの。つきちゃんの掌に頭を撫でてもらうと凄く気持ちが良くて、胸があったかくなって、優しい気持ちになれるんだ」
夢見心地に語る陽穂の言葉に驚いて手を止め、声を失くして只管に陽穂を見つめる。
「だから、私つきちゃんに撫でてもらうのが大好き」
陽穂がはにかんだ様子で笑った。
「私が毎日色々と持って帰って来るのは、勿
論つきちゃんに喜んで欲しいから、っていうのもあるんだけど、一番の理由はつきちゃんの魔法の掌に撫でてもらいたいからなんだよ」