てのひらの魔法
陽穂の何の飾り気も無い素直な言葉は、巴月の傾けた耳の先からじわじわと浸透していき、胸の奥深い場所に触れる。
「初めて折り鶴を持って帰って来た日の事を覚えてる?」
陽穂の問いに、巴月はゆっくりと頷いた。忘れられる筈がない。それは巴月にとっても大切な日で、陽穂が初めて掌の魔法を伝えてくれた時の事を、ついさっきも鮮やかに思い返していたばかりなのだから。頷いた巴月に、陽穂は笑みを深くした。
「あの日も、つきちゃんはありがとうって私の頭を撫でてくれた」
その時の感触を思い出しているのか、陽穂は再びとろんと目を細めた。
「その時のつきちゃんの掌の温かさが忘れられなくて、また撫でて欲しくて、何度でもつきちゃんの掌の魔法が欲しくて、私はつきちゃんのおみやげを毎日探して持って帰って来るの」
突然の陽穂の告白に、巴月は胸を詰まらせる。何よりも驚いたのは、陽穂が掌の魔法を使えると巴月が信じている様に、陽穂もまた、巴月が掌の魔法を使えると信じている事だった。そして、巴月が陽穂の掌の魔法を焦がれている様に、やはり陽穂も、巴月の掌の魔法を焦がれている事にも同様に驚いた。密やかに胸の内だけで思う巴月とは対照的に、余りに素直な言葉を恥ずかしげもなく言って退けるものだから、陽穂の言葉は激しく巴月の心を揺さぶった。
「いつも、優しい魔法をありがとう」
言葉を失ってひたと陽穂を見つめる巴月に、陽穂は容易に微笑んでみせる。笑って陽穂が口にした言葉は、確かに巴月がいつも陽穂に対して思っている言葉だった。巴月の胸に熱い感情の波が押し寄せる。自分は陽穂が与えてくれる掌の魔法をただ待ち焦がれ、ただ受け取るばかりだと思っていた。自分からは何一つ返す事が出来ず、ありがとうというった一言の短い言葉だけでは、とても感謝し尽くせない程に感謝しているのに、それを伝える術が無いと嘆いてさえいた。しかし、そんな巴月に陽穂はいとも簡単に言った。巴月の掌は魔法の様だと。巴月にも、掌の魔法が使えるのだと。そして、いつも優しい魔法をありがとうと、そう言って笑ったのだった。巴月の胸に、押し寄せた熱い感情の波が満ち、到頭雫となって頬を伝い落ちる。
嗚呼、私にも掌の魔法が使えたのか、と、何も返せていない訳ではなかったのだと、頬を濡らす涙の温度を感じながら、巴月は思った。焦がれ、受け取るばかりではなく、陽穂にも掌の魔法を伝えられていたのなら、それは何て幸せな事だろう。巴月は一つ、また一つと溢れる涙を、ただ頬を伝うままに任せた。
「つきちゃん?」
陽穂が涙を流す巴月に目を丸くして、心細そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたの?私、何か変な事言った?それとも、何処か痛いの?」
おろおろと巴月を案じてくれる陽穂が、堪らなく愛おしい。
「ううん。そうじゃないの。そうじゃないのよ」
気遣わしげな陽穂の問いに、巴月は緩々と首を横に振って答えた。巴月は、一つ思い違いをしていたのだ。巴月は、ありがとうというたった一言の短い言葉だけでは、とてもではないが感謝し尽くせないと思っていた。だからといってありがとうという感謝の言葉を口にしなかった訳ではないが、陽穂から掌の魔法を受け取る度にありがとうと口にすると、そんな短い言葉だけでは、有り余る感謝の気持ちのほんの一欠片であっても伝えきれないと、そう思ってもいた。今も、その短い言葉だけでは、陽穂に伝えたい感謝の気持ち一つにさえ遠く及ばないと思っている。しかし、そうではなかった。実際には、ありがとうというたった一言の短い言葉だけで十分だったのだ。それを陽穂がたった今証明してくれた。陽穂は巴月に向かって言った。いつも優しい魔法をありがとう、と。その決して多くはない言葉は、陽穂の感謝の気持ちを表現するのにも、巴月の胸を打つのにも十分過ぎた。それは巴月の心に確かに温かく灯り、こんなにも強く胸の内で響いている。揺り動かした巴月の感情の波を溢れさせ、雫となって頬を伝う程に。ならば、巴月もまた、改めて伝えなければならない。毎日掌から優しさを伝えてくれる陽穂に、陽穂自身も掌の魔法が使えるのだと、巴月が毎日どれ程それに焦がれ、救われてきたのかを、そして、そんな陽穂にどれ程巴月が感謝しているのかを、陽穂がそうしてくれた様に、巴月もまた、改めて伝えなければ。
「あのね、あきちゃん」
巴月は目尻に溜まった涙を指先でそっと拭い、未だ心配そうに自分を見つめている陽穂を、真っ直ぐに見据えて口を開いた。あどけない顔をした小さな掌の魔法使いに、その力と、それに対する感謝を伝える為に、穏やかに。