名も無き電子の夢
慌ててルイが言い添えると、彼女は初めて嬉しそうな表情で笑った。初めて見る彼女の嬉しそうな笑顔に、ルイの何処か深い場所が痛んで揺れる。たとえただのプログラムだったとしても、誰かにそんな風に嬉しそうな笑顔を向けられたのは、やはりルイにとって初めての事だった。ルイの中に、再び名前の知らない感慨が湧く。それに伴って、ルイの中にそれ以前よりも強い欲が生まれた。もっと彼女の嬉しそうな笑顔を見たい。もっと彼女の声を聴きたい。ルイは自分でも何故そう思うのか分からないまま、強くそう思った。強く求めてしまえば、あとはもうその欲に従う儘だった。彼女の傷んだ基盤の事も何もかもを忘れ、ルイは彼女の嬉しそうな笑顔を見たくて、簡単な問題用紙をいくつも作っては彼女に与えた。彼女を起動させる度に作った問題用紙を手渡し、単純な計算式を解かせる。ロボットである彼女は何の疑問も抱かず、ただ与えられるままルイの手から問題用紙を受け取り、黙々と計算式に取り組んだ。解いた問題用紙を返してじっとルイを見上げる彼女に礼を言うと、彼女はいつも嬉しそうな表情で笑った。ルイと彼女は毎日そのやり取りを繰り返した。来る日も来る日も、飽きもせずにルイは彼女の嬉しそうな笑顔を眺めた。が、やはりそれは彼女にとって負担の大きな日々だった。元々損傷の激しい、傷んでいる基盤ではただ起動させ続けるだけでも負荷が掛かるというのに、その上単純なものとはいえ計算処理までさせ続けたのだ。それは彼女が壊れてしまう日を悪戯に早めてしまう事に他ならなかった。そんな当然の事に気付けない程、否、気付きたくない程、ルイは彼女に夢中だった。そして、彼女はロボットである。たとえ自身がどういう状態であろうとも、与えられた役割に取り組み、こなすのがロボットだ。彼女の内側がどんなに悲鳴を上げようと、彼女は決してそれをルイに打ち明けたりはしない。損傷が著しく進んでいようとも、限界を越えるその時までルイの求めに応じて起動し続け、ルイが与えるまま問題用紙に取り組み続けるだけだ。そしてルイが目を覚まさない内に、到頭限界は訪れた。いつものように起動させ、問題用紙に取り組ませていた彼女が、突然オーバーヒートを起こしたのである。ルイが見守る中で黙々と問題用紙に取り掛かっていた彼女から突然ぶつん、と嫌な音がしたかと思うと、次の瞬間にはその場に崩れ落ちていた。倒れた彼女に慌てて駆け寄ってその身を抱え起こし、急いで端末に繋げる。調べてみると、やはり基盤の損傷は相当に進んでおり、その基盤に繋いでいた回路もいくつか焼き切れてしまっている。回路は取り替えればいくらでも繋ぎ合わせる事が出来る。が、その元となる肝心の基盤が限界を迎えようとしていては、いくら回路を取り替えて繋ぎ合わせてみた所でもう修復は不可能だろう。そしてその基盤の替えは、何処を探しても見つからなかった。代用品になりそうな物ですら、今の時代では見つける事が出来なかった。彼女の基盤は既に損壊寸前まで傷んでいる。しかし、まだ完全には壊れてはいない。傷んだ基盤のまま無理に計算処理を行わせ続けた為、回路が焼き切れて一時的に動かなくなってはいるものの、焼き切れた回路を全て取り替えて繋ぎ合わせれば、或いはもう一度くらいは彼女を起動させる事が出来るかもしれない。但し、その一度きりだ。恐らくはその一度きりが限度だろう。それ以上は彼女の基盤が保たず、そのたった一度で彼女は完全に壊れてしまうに違いない。もう手の施しようは無かった。ルイは目を閉じて横たわり、ぴくりとも動かない彼女を見つめた。その顔には微笑は浮かんではおらず、閉じられた口から清らかな声音が漏れる事も無い。ルイの何処かが、ぎりりと軋む。その痛みの名前も知らないまま、ルイは動かない彼女の手を取った。どうしてそんな事をするのか、理由なんて分からない。それでも、そうしないではいられなかった。そんな事をした所で彼女は直らないというのに、ルイは暫く彼女の動かない手を握り締めていた。
数日後、ルイは彼女の焼き切れた回路を全て取り替え、新たに回路を繋ぎ合わせた。もう一度、最後の一度、彼女を起動させる事にしたのである。彼女ときちんと別れを済ませ、ルイの中で区切りをつける為には、最後にもう一度だけ彼女を起動させる必要があった。起動させた所で、彼女が何処まで保ってくれるかは分からない。その柔らかな微笑みすら見られない内に、彼女は直ぐ様オーバーヒートを起こして壊れてしまうかもしれない。それでもルイは彼女と別れる為に、もう一度、最後の一度、彼女を起動させた。ルイの求めに応じて、彼女が徐に目を開ける。ルイは固唾を呑んで目を開けた彼女を見守る。彼女がのろのろと上体を起こそうとするも、もう上体を起こすだけの機能も巧く働かないらしく、中途半端に腕を動かしたままいつまでも上体を起こせずにもどかしそうに足掻く。見兼ねたルイが横から手で制すると、足掻くのを止めた彼女が首だけを巡らせてルイを見た。じっとルイを見上げる視線に、ルイも静かに見つめ返す事で応える。彼女の視線と、ルイの視線が絡み合う。やがて、彼女が緩々と脆弱な笑みを浮かべた。
「こん、にちは」
たった一言、それだけの短い挨拶であってもつっかえながら、清らかな声音はそのままに言う。ルイの何処かが軋んで悲鳴を上げる。痛みがそうさせるまま、ルイは彼女の手を握り締め、今出来る限りの笑みを、なるべく彼女が向けてくれた柔らかな微笑に近付けて浮かべた。
「こんにちは」
ルイの返事に、彼女は弱々しい笑みを深める。そして、徐にルイに握られていない方の手を酷く重たげに持ち上げ、ルイの背後を見つめながら指差した。ルイは何かと不思議に思いながら、彼女が指差す方へ視線を向ける。ルイの背後には、簡素な机と椅子があるのみだ。そしてその机の上には、ルイが彼女に与えてきた問題用紙が乗っている。どうやら彼女は、その問題用紙を指差しているようだった。驚いて彼女を見ると、彼女が弱々しい笑みと声で言った。
「…お役、に」