名も無き電子の夢
そこから先の言葉は続かなかったが、彼女が何を言わんとしているのかは痛い程よく分かった。ルイは目を見張る。損壊寸前まで基盤が傷んでいたのなら、日々の事を記録する事など到底不可能だろうと思っていた。たとえ記録出来ていたとしても、それを呼び起こすだけの機能はとてもではないが働かないだろうと思っていた。それ程までに、彼女の損傷は激しかったのだ。しかし、彼女は記録していた。彼女は、覚えていたのだ。ルイとたった一言の短い挨拶を交わし、微笑み合った日々を、ルイに問題用紙を与えられ、それに取り組んだ日々を、唯一つルイに由って与えられた自らの役割と、それに依って得られた充足を。ルイは愕然とした。上体すら起こせない、既に限界に近い状態であっても、それでも彼女はルイの役に立とうとしている。唯一つルイに由って与えられていた自らの役割に今また取り組み、それに従事する事で、縋ろうとしている。ロボットとはそういうものだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、誰も彼女を必要としなくなった今、それだけが彼女の存在意義だったのだとも言える。この世界で唯一人、ルイだけが彼女を必要としていた。ルイだけが彼女を求め、彼女に役割を、存在意義を与えていた。そして、この世界で唯一人、彼女だけがルイに柔らかな微笑と清らかな声音を向けた。それがどれ程ルイの救いになっていたか。言わば、ルイにとって彼女は拠り所だった。そこでルイははたと気付く。彼女を拠り所としていたルイのように、或いは彼女もまた、ルイを拠り所としていたのではないか、と。
問題用紙を指差したままなかなか手を下ろそうとしない彼女のもう片方の手も取り、ルイは両手で彼女の手を包み込んだ。そして緩々と首を横に振ってみせてから、静かな声で言う。
「ありがとう。貴女が居てくれて、良かった。ありがとう。ありがとう。でも、もういいよ。もう十分だよ」
ルイはやっとの思いで微笑んでみせ、伝えたい思いを口にした。本当はもっと伝えたい言葉はあるのだが、結局それだけしか言葉にならなかった。ルイが苦労して浮かべた微笑をじっと見つめ、ルイが苦労して口にした言葉にじっと耳を傾けていた彼女はやがて、少しだけ寂しそうな、しかしこの上も無く幸せそうな顔で笑った。直後、ぶつん、とまたあの嫌な音がしたかと思うと、電源も落としていない内から彼女が幸せそうな笑みを浮かべたままその目を閉じた。彼女は到頭、ルイの拠り所である役目を終えた。ルイがどんなに手を尽くそうとも、もう彼女は二度と目を覚まさない。柔らかな微笑も、清らかな声音も、もう二度とルイに向けられる事は無い。
「あ…」
それが分かった時、ルイの口から思わず短い一音が漏れる。しかし、その先の言葉が続かない。何を口にしていいのかすら分からない。この時になって初めて、ルイは彼女に呼ぶべき名前が無い事に思い至った。ルイは今の今まで彼女に名前をつけておかなかった事を悔いた。名前なんて必要無いと思っていた。が、そうではなかった。名前は、必要だった。別れの時にその名前を呼ぶ事すら出来ないなんて、余りにも悲し過ぎる。ルイは力を失った彼女の両手を握り締めたまま、言葉にならない声を漏らして滂沱した。プログラムがそうさせている訳ではなく、ルイが意識してそうしている訳でもないのに、涙は後から後から溢れて止まらなかった。止め処無く、いつまでも。名前も知らない感慨を失った事で、ルイの何処かが軋み、痛み続けるまま、ずっと。