彼女の鳥籠
お医者様は眉根を寄せて重々しく首を横に
振りました。
「いや、居ない。鳥籠の中に居る鳥は君の妄想だ」
女の子はこっそりと鳥籠を抱え直し、冷徹な瞳でお医者様を見遣ります。睨み付ける事はしませんでした。見えない鳥を否定する事しか出来ないお医者様を、睨み据える価値なんて無いからです。
「いいえ、妄想なんかじゃないわ。鳥籠の中に鳥は居るの。ただ、貴方には見えないだけ」
その声音にいくらかの憐憫を含ませた事に、お医者様は目敏く気が付いたようでした。それがお医者様の癇に障ったようです。お医者様はやや威圧的に鳥籠の中に鳥は居ないと繰り返しました。女の子はちっとも応えた様子がありません。その瞳に侮蔑を滲ませ、口元には嘲笑を宿して鳥籠の中に鳥は居ると繰り返します。鳥が見えない貴方は可哀想だと、けれど貴方には決して鳥が見えないのだと言外に憐れまれ、蔑まれ、お医者様のプライドは酷く傷付きました。元々お医者様は心の病に罹った患者を見下している節がありましたから、その見下している患者から憐れまれ、蔑まれたのでは、黙ってはいられません。お医者様は向きになってもう一度鳥籠の中に鳥は居ないと繰り返しました。すると、やはり鳥籠の中に鳥は居ると、侮蔑と嘲笑を以って女の子が返します。こうなるともう平行線です。お医者様が向きになればなる程女の子は冷ややかさを増し、お医者様を憐れみ、蔑む色もより濃くなっていきます。どんどん依怙地になっていくお医者様が否定を繰り返しても、どんどん冷めていく女の子が頑として主張を繰り返します。どちらも頑なに自己の主張を曲げませんでした。鳥籠の中に鳥は居る、居ないの一点張りです。話はいつまで経っても平行線のまま終わりません。ただ一人、お医者様だけが向きになって冷静さを欠いていきます。最初の傲然と人を見下した態度は何処へやら、今ではその険しい顔に青筋を立て、わなわなと唇を震わせています。そうして同じやり取りを繰り返していく内に、やがては女の子が飽きたと言わんばかりに静かに、しかし露骨に溜息を吐きました。
「もう結構よ。貴方では話にならないわ。お帰り下さいな」
小馬鹿にした様子で鼻で笑われ、二人目のお医者様も到頭熱り立って匙を投げました。女の子の両親は溜息を漏らしました。
三人目のお医者様は穏やかな笑みを湛えた、柔和な雰囲気のお医者様でした。女の子の両親が、娘が毎日空っぽの鳥籠を抱え、中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺めていると相談すると、お医者様はそうですか、とのんびりと頷きました。ですが、それだけで心の病と決め付けるのは早計ですよ。もしかしたら、私の出る幕ではないかもしれません、と暢気にお茶を啜りながら言うので、女の子の両親は三人目のお医者様に相談を持ち掛けた事に、不安を覚えました。それでも、会うだけは会って話をしてみましょう。私の出る幕でなかったその時はお代は結構です、とお医者様が言うので、女の子の両親もそう言うならとお医者様に任せてみる事にしました。どうせ駄目で元々なのです。前二人のお医者様も得意満面に自分が何とかすると豪語しておきながら、結局はあっさりと匙を投げました。女の子の両親も次々とお医者様を探し出して相談を持ち掛ける事に疲れ、その苦労の甲斐も無く成果が上がらない事に落胆し、半ば諦めかけている所でした。三人目のお医者様でも駄目だったその時は、仕方がありません。そうしたら暫く娘の事はそっとしておこうとすら、女の子の両親は考えているのでした。そんな女の子の両親の思惑など露知らず、お医者様は早速女の子の部屋へ行き、空っぽの鳥籠を抱えてうっとりと幸せそうに中を眺める女の子に話し掛けました。
「こんにちは」
お医者様が柔らかく微笑んで挨拶をすると、
女の子はちらりと視線を向けました。内心でまたか、とうんざりしましたが、やはりそれをおくびにも出さず、女の子は自らが抱える鳥籠を、正確には鳥籠の中に居る鳥をお医者様に指して言います。
「貴方には、この鳥が見える?」
お医者様は女の子が大切そうに抱える鳥籠をじっと見つめました。そしてほんの少し困ったように眉尻を下げると、緩々と首を横に振りました。
「いいえ。私には見えません」
「そう…」
女の子は小さく溜息を漏らしました。三人目のお医者様も、結局は他の人達と同じなのだと思ったからです。ですが、話はそこで終わりませんでした。お医者様が穏やかに微笑んで続けます。
「だから、私に教えてくれませんか?貴女が見ている鳥籠の鳥の事を、見えない私に」
お医者様の予想外の言葉に、女の子は虚を
衝かれたように目を丸くしました。
「貴方に、鳥籠の中に居る鳥の事を?」
首を傾げる女の子に、お医者様はゆっくりと頷きます。
「そう。私には鳥籠の中に居る鳥が見えないから、見える貴女に教えて欲しい。私は、鳥籠の中にどんな鳥が居るのか、貴女が見ている鳥がどんな鳥なのかを知りたい」
女の子は暫く黙ってお医者様をじっと見つめました。その言葉に嘘が潜んではいないか、その瞳に偽りが覗いてはいないか、注意深く。そして、徐に首を縦に振りました。
「いいわ。何から知りたいの?」
女の子の許しを得たお医者様は、ありがとうとにっこりと笑いました。
「そうですね。ではまず、鳥の大きさから。鳥籠の鳥はどのくらいの大きさなのかな?」
お医者様の問いを受け、女の子は抱えた鳥籠に視線を落とします。中に居る鳥を愛おしげに見つめながら、女の子は口を開きました。
「そうね。金糸雀よりは大きいけれど、雲雀よりは小さいわ」
鳥籠の中の鳥が動いているからなのか、女の子の視線は鳥籠の中に向けられたまま微かに揺れ動きます。お医者様は微妙に揺れ動く女の子の視線を追いながら、ふむ、と声を漏らしました。
「では次に、色を。鳥籠の鳥はどんな色をしているのかな?」
「綺麗な水色よ。春の霞掛かった空の色に似ているわ」
言いながら、女の子は抱えた鳥籠にそっと手を添わせます。中に居る鳥を慈しむ手つきで、優しく。決して鳥籠の中には手を入れようとはせず、鳥籠の外から中に居る鳥を愛おしむ女の子を見て、お医者様は目を細めます。
「では次は、鳴き声を。鳥籠の鳥はどんな声で鳴くのかな?」
女の子はすっと瞼を閉じました。鳥籠の中から聞こえる鳥の鳴き声に、じっと耳を澄ま
せているようです。
「鶲の鳴き声に似ているわ。とても可愛らしい声で、歌うように鳴くのよ」
答え終わっても女の子は目を閉じたまま、うっとりと聞こえもしない鳥籠の鳥の鳴き声に聞き入っていました。お医者様は一心に鳥籠の鳥の鳴き声に耳を傾ける女の子を見つめました。そのまま黙り込んでいたので、女の子が漸く目を開いてお医者様を見遣り、不思議そうに首を傾げます。
「もう質問はおしまい?」
女の子の問いに、お医者様はすぐには答えませんでした。やや躊躇うような極短い間を置いた後、お医者様が尋ねます。
「それでは最後にもう一つだけ。貴女は、鳥籠の外から鳥を眺めるだけで満足なのかな?」
女の子はぱちくりと目を瞬かせます。てっきり鳥籠の中に居る鳥について質問をされると思っていた女の子にとって、この質問は完全に予想外でした。
「…どういう意味?」