彼女の鳥籠
声を潜めて探るように問う女の子の瞳に、ちらちらと不安が見え隠れしているのを、お医者様は見逃しませんでした。ですが、素知らぬ顔をして穏やかな口調のまま続けます。
「いえ、ただ気になったものですから。鳥籠から鳥を出して愛でたりはしないのかな、とね。単なる好奇心ですよ」
お医者様の言葉を聞き、女の子は両腕でしっかりと鳥籠を抱え直すと、ぴしゃりと言って退けました。
「出さないわ」
その余りの断言振りに、お医者様は首を傾けます。
「それは何故?」
女の子はほとんど鳥籠に頬擦りをせんばかりに顔を近付け、鳥籠の中に居る鳥を心底愛おしげに見つめ、しかし口調は何処までも悲しげに言いました。
「だって、私は鳥籠の外から鳥を眺めるだけ
で満足だもの。他には何も望まない。触れてみたいと思った事も無いわ。鳥籠から出してしまったら、鳥は鳥籠を捨てて私の許から飛び去ってしまうかもしれない。もしそうなってしまったら、私はとてもではないけれど耐えられないわ。私はいつまでもずっと鳥籠の中に居る鳥を眺めていたいの。それが私の願いで、幸せよ」
女の子の切々とした答えに、お医者様はなるほど、と頷きました。
「貴女は、鳥籠の中の鳥をとても愛しているんだね」
お医者様の静かな声に、女の子がはっとして顔を上げます。目を見張ってお医者間を見つめる女の子に、お医者様は柔和な笑みを浮かべて応えます。女の子は暫く黙ってお医者様を見つめた後、やがて泣き笑いのような、曖昧で複雑な表情を緩々と浮かべ、再び抱えた鳥籠に、その中に居る鳥に視線を落としました。
「ええ。私はこの子を、とても愛しているわ。とても、とてもね」
お医者様はぽつりと零した女の子を眺め、次いで女の子が大切そうに抱える空っぽの鳥籠を見つめました。女の子は鳥籠の中に居る鳥を見つめたまま、静かに問い掛けます。
「貴方には、この鳥が見える?」
お医者様も女の子に倣って空っぽの鳥籠を見つめたまま、静かに首を横に振ります。
「いいえ。私には見えません」
「では何故、貴方は鳥籠を見つめるの?貴方の視線はまるで、鳥籠の中に居る鳥を追っているように見えるのに」
「それは貴女の真似をしているだけです。貴女の視線を追えば、或いは貴女が見ている鳥籠の鳥が見えるのではないかと思いまして」
女の子はそっと、微かに吐息を漏らしました。
「変なの」
それは、女の子なりの笑みなのでした。
「変でしょうか?」
「変よ」
小首を傾げるお医者様に、女の子は吐息混じりに答えます。言葉を交わし合っていても、女の子とお医者様の視線は合わさりません。どちらも空っぽの鳥籠を見つめているからです。やがて、女の子が到頭小さいながらもくすくすと笑い声を上げました。
「でも、貴方は優しいわ」
ほとんど泣きそうな顔で笑みを零す女の子に、お医者様はありがとうと言って微笑みました。
「どうでしたか?」
部屋から出てきたお医者様に、女の子の両親が透かさず不安も露に駆け寄ります。お医者様は穏やかに笑って、まあ此処では何ですから、と客間へ移動するよう促しました。そして客間に移動するなり不安げな視線を投げ
掛ける女の子の両親を真っ直ぐに見据え、お
医者様はやおら口を開きました。
「まず、お嬢さんは心の病ではありません」
お医者様の意外な言葉に、女の子の両親は目を丸くします。お医者様は構わずに続けます。
「因って、やはり私の出る幕ではありませんでした。お約束通り、お代は結構です」
お医者様は簡潔にそれだけを述べると、ではと言い残してそのまま客間を去ろうとしました。少し遅れて女の子の両親が慌ててその背中を引き留めます。
「ちょっと待って下さい。では何故、娘は毎日空っぽの鳥籠を抱え、中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺めるのでしょうか?それはあの子が妄想に憑かれているからに他ならないからではありませんか?」
女の子の両親は納得がいかない様子で捲し立てます。その口調はまるで自分達の娘が心の病に罹っていると決め付けているかのようで、女の子が毎日空っぽの鳥籠を抱え、中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺めるのはその所為なのだと思い込みたいようでした。心の病の所為にしなければ、女の子が空っぽの鳥籠を抱える訳も、中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺める理由も、女の子の両親には分からないのです。困惑する女の子の両親の声に、お医者様は困ったような曖昧な笑みを浮かべて振り返ります。そして無駄と知りつつも、静かな声で答えました。
「それは、鳥籠の鳥があの子の拠り所だからです」
お医者様からしてみればこれ以上無い程的を射た答えでしたが、案の定女の子の両親には伝わらなかったようで、説明を受けても尚訳が分からないといった様子で顔を顰め、首を捻りました。お医者様はそれ以上の説明をしませんでした。
「もしあの子の為を思うのでしたら、抱えた鳥籠はそのままに、そっとしておいておあげなさい。好きなだけ鳥を眺めさせておあげなさい。心配しなくとも、何れあの子は自分から鳥籠を手放しますよ。それがいつになるかは断言出来ませんが、いつかは誰に何を言われずとも、あの子は自然と鳥籠を手放すでしょう」
何故なら、と続く言葉を、お医者様は密かに呑み込みました。女の子の両親に言った所で、無意味だと気が付いたからです。
「その時まで、優しく見守っておあげなさい。私に言える事はそれだけです」
呑み込んだ言葉の代わりに助言を言い置いて、お医者様は今度こそ客間を後にしました。残された女の子の両親は困惑顔のまま顔を見合せます。お医者様の言葉を真に受けていいものか、或いはやはり前二人のお医者様同様無駄だったのかを決め兼ねました。女の子の両親は暫く頭を悩ませましたが、結局は他に手立ても無い為に、お医者様の言葉に素直に従い、女の子をそっと見守る事にしました。いつか、女の子が自分から鳥籠を手放すその日を待って。一方、女の子の家を完全に立ち去る前に、お医者様はもう一度女の子の部屋がある方角を見上げました。きっと今この瞬間にも、空っぽの鳥籠を大切そうに抱え、うっとりと幸せそうに中を眺めているだろう女の子に思いを馳せます。お医者様は溜息とも微笑ともつかない吐息を漏らすと、そのまま振り返らずに女の子の家を後にしました。
とても可哀想な女の子がありました。女の子は毎日空っぽの鳥籠を大切そうに抱え、鳥の居ない鳥籠をうっとりと幸せそうに眺めています。女の子にだけは、鳥籠の中に居る鳥が見えるのです。女の子は来る日も来る日も、自分だけに見える鳥籠の鳥を飽きもせずに眺めます。ですが、鳥籠の鳥を眺める女の子のその瞳は、いつだってほんの少し寂しそうなのです。