彼女の鳥籠
とても可哀想な女の子がありました。女の子は毎日空っぽの鳥籠を大切そうに抱え、鳥の居ない鳥籠をうっとりと幸せそうに眺めています。女の子にだけは、鳥籠の中に居る鳥が見えるのです。女の子以外には、鳥籠の中に居る鳥は見えません。勿論、女の子の両親も例外ではありませんでした。女の子は毎日空っぽの鳥籠を大切そうに抱え、来る日も来る日も両親にすら見えない、自分にだけ見える鳥籠の鳥を飽きもせずに眺めます。その姿は一種異様でした。幸せそうに微笑んで空っぽの鳥籠を眺める女の子を最初の内こそ放っておいた女の子の両親も段々と気味が悪くなり、遂に女の子から鳥籠を取り上げようと試みました。
「その鳥籠に鳥なんて居ないよ。そんなに鳥が欲しいのなら買ってあげるから、空っぽの鳥籠を眺めるのはもうお止め」
すると、女の子は鳥籠を奪われまいときつく鳥籠を胸に抱え、激しく泣いて抵抗します。
「居るわ!鳥籠の中にちゃんと鳥は居るわ!新しい鳥なんて欲しくない。だって、鳥はもう鳥籠の中に居るもの。お父さんとお母さんには鳥籠の中に居る鳥が見えないの?!」
鳥籠を抱えて放すまいと守る女の子の必死の抵抗に、両親はほとほと困り果て、鳥籠を取り上げるのを諦めました。余りの切実さに女の子が気の毒になる程でしたが、それでもどうあっても女の子以外には鳥籠の中に居る鳥は見えないのです。女の子の両親はどうしたものかと頭を抱えました。両親がそうして頭を悩ませている間も、女の子は毎日空っぽの鳥籠を大切そうに抱え、鳥の居ない鳥籠をうっとりと幸せそうに眺めます。その内に、女の子の両親は自分達の娘が心の病に罹っているのではないかと疑い始めました。心の病に罹っているから、空っぽの鳥籠の中に居もしない鳥を見ているのではないかと思ったのです。女の子の両親は心の病を専門にしているお医者様に相談してみる事にしました。
一人目のお医者様はやたらと愛想の良い、笑顔が鼻に付くお医者様でした。女の子の両親が、娘が毎日空っぽの鳥籠を抱え、中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺めていると相談すると、お医者様はそれは大変だと大仰に頷きました。それは心の病に違いありません。専門家の私にお任せなさい、と自信満々に言うので、女の子の両親はお医者様に任せる事にしました。
お医者様は早速女の子の部屋へ行き、空っぽの鳥籠を抱えてうっとりと幸せそうに中を眺める女の子に話し掛けました。
「こんにちは」
にこやかな笑みを顔一杯に貼り付けて挨拶をしたお医者様を、女の子はちらりと見遣りました。女の子はとても賢い子だったので、一目見ただけでお医者様が心の病を専門にしている医者である事を見抜きました。そして、両親が自分は心の病に罹っているのだと思っている事にも気が付きました。心の病に罹った可哀想な娘を治療させる為に、心の病を専門にしているお医者様を両親が呼び寄せたのだな、と女の子はへらへらと笑うお医者様を冷静に見据えました。女の子の胸には怒りも悲しみも湧きませんでした。両親が自分は心の病に罹っているのだと思っている事も、その為に心の病を専門にしているお医者様を態々呼び寄せた事も、女の子の関心の外の事だからです。女の子の関心は、自分だけの鳥籠の鳥にしか向けられていないのですから。女の子は自らが抱える鳥籠を、正確には鳥籠の中に居る鳥をお医者様に指して言います。
「貴方には、この鳥が見える?」
お医者様は女の子が大切そうに抱える鳥籠をさっと一瞥しただけで鼻に付く笑みを湛え、得意満面に答えます。
「ええ、勿論見えますとも」
そう答える事で女の子の心を開けると信じて疑わなかったからです。ですが、お医者様
の予想に反して女の子は憎々しげに顔を歪め
お医者様を鋭く睨め付けました。
「嘘吐き」
凡そ年端もいかぬ少女が発するとは思えない程憎悪に満ちた低い声が、女の子の口から発せられました。それは呪詛のようにお医者様の耳と心臓を貫きます。お医者様は慌てました。
「嘘ではありません。私には鳥籠の中に居る鳥が、貴女が見ている鳥が見えるのです」
慌てふためいて言うお医者様に、女の子は冷たい一瞥をくれます。
「それなら、鳥籠の中に居る鳥がどんな鳥なのか言ってみせて。ねぇ、鳥籠の鳥はどんな鳥?どのくらいの大きさで、どんな色をしているの?ねぇ、答えて?」
お医者様は言葉に詰まりました。すぐには返答出来る筈もありません。何せ、お医者様には最初から鳥籠の中に居る鳥なんて見えていなかったのですから。答えに窮するお医者
様を冷ややかに見つめ、女の子は歪な表情で
せせら笑います。
「ほら、答えられない。貴方には鳥籠の中に居る鳥が見えないからだわ。嘘吐き」
お医者様は図星を指されてぐっと喉を詰まらせましたが、簡単には引き下がりませんでした。お医者様にも意地とプライドがあります。心の病を専門と謳う医者として、その意地とプライドに掛けて、どんなに冷笑を浴びせられても此処であっさりと引き下がる訳にはいかなかったのです。お医者様は懸命に想像力を働かせ、鳥籠の中に居る鳥を思い浮かべようと努めました。
「ええと、小さくて、色は薄黄色の…」
それでも元々の想像力が乏しい所為か、どうしても鳥籠の中に居る鳥を上手く想像する事が出来ません。答える声も自然としどろもどろになります。女の子は調子外れなお医者様の言葉を最後まで聞こうともせず、徐に首を横に振りました。
「もう結構よ。鳥籠の中に居る鳥はそんな鳥
じゃないわ。お帰り下さいな」
女の子に突っ撥ねられ、お医者様は到頭匙を投げて悄々と引き下がりました。女の子の両親は溜息を漏らしました。
二人目のお医者様はやたらと険しい顔付きの、無口で冷たい印象のお医者様でした。女の子の両親が、娘が毎日空っぽの鳥籠を抱え、中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺めていると相談すると、お医者様はそれは大変だと顔を顰めました。それは心の病に違いない。早急に手を打ちましょうと深刻に言うので、女の子の両親はお医者様に任せる事にしました。
お医者様は早速女の子の部屋へ行き、空っぽの鳥籠を抱えてうっとりと幸せそうに中を眺める女の子に会いました。二人目のお医者様は一人目のお医者様のように気軽に話し掛けたりはしません。にこりともせず、ただ一言の挨拶すら口にしようともせずに、空っぽの鳥籠を抱えて中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺める女の子をじっと観察します。その視線はお医者様というよりは陰気な研究員のようです。女の子は陰気な視線でじっと自分を観察するお医者様をちらりと見遣り、また新しいお医者様を両親が呼び寄せたのかと内心で溜息を吐きました。しかしそれをおくびにも出さず、女の子は何も言わずに視線を鳥籠の中に居る鳥に戻します。暫くして、空っぽの鳥籠を抱えて中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺める女の子をじっと観察していたお医者様が、漸くしかつめらしく口を開きました。
「君が大切そうに抱えているその鳥籠は空っぽだ。中に鳥なんて存在しない」
お医者様の不躾な否定の言葉に、女の子はちらとも視線を寄越さず、鳥籠の中に居る鳥を見つめたまま平然と言います。
「居るわ。鳥籠は空っぽなんかじゃない。鳥はちゃんと鳥籠の中に居るのよ」
「その鳥籠に鳥なんて居ないよ。そんなに鳥が欲しいのなら買ってあげるから、空っぽの鳥籠を眺めるのはもうお止め」
すると、女の子は鳥籠を奪われまいときつく鳥籠を胸に抱え、激しく泣いて抵抗します。
「居るわ!鳥籠の中にちゃんと鳥は居るわ!新しい鳥なんて欲しくない。だって、鳥はもう鳥籠の中に居るもの。お父さんとお母さんには鳥籠の中に居る鳥が見えないの?!」
鳥籠を抱えて放すまいと守る女の子の必死の抵抗に、両親はほとほと困り果て、鳥籠を取り上げるのを諦めました。余りの切実さに女の子が気の毒になる程でしたが、それでもどうあっても女の子以外には鳥籠の中に居る鳥は見えないのです。女の子の両親はどうしたものかと頭を抱えました。両親がそうして頭を悩ませている間も、女の子は毎日空っぽの鳥籠を大切そうに抱え、鳥の居ない鳥籠をうっとりと幸せそうに眺めます。その内に、女の子の両親は自分達の娘が心の病に罹っているのではないかと疑い始めました。心の病に罹っているから、空っぽの鳥籠の中に居もしない鳥を見ているのではないかと思ったのです。女の子の両親は心の病を専門にしているお医者様に相談してみる事にしました。
一人目のお医者様はやたらと愛想の良い、笑顔が鼻に付くお医者様でした。女の子の両親が、娘が毎日空っぽの鳥籠を抱え、中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺めていると相談すると、お医者様はそれは大変だと大仰に頷きました。それは心の病に違いありません。専門家の私にお任せなさい、と自信満々に言うので、女の子の両親はお医者様に任せる事にしました。
お医者様は早速女の子の部屋へ行き、空っぽの鳥籠を抱えてうっとりと幸せそうに中を眺める女の子に話し掛けました。
「こんにちは」
にこやかな笑みを顔一杯に貼り付けて挨拶をしたお医者様を、女の子はちらりと見遣りました。女の子はとても賢い子だったので、一目見ただけでお医者様が心の病を専門にしている医者である事を見抜きました。そして、両親が自分は心の病に罹っているのだと思っている事にも気が付きました。心の病に罹った可哀想な娘を治療させる為に、心の病を専門にしているお医者様を両親が呼び寄せたのだな、と女の子はへらへらと笑うお医者様を冷静に見据えました。女の子の胸には怒りも悲しみも湧きませんでした。両親が自分は心の病に罹っているのだと思っている事も、その為に心の病を専門にしているお医者様を態々呼び寄せた事も、女の子の関心の外の事だからです。女の子の関心は、自分だけの鳥籠の鳥にしか向けられていないのですから。女の子は自らが抱える鳥籠を、正確には鳥籠の中に居る鳥をお医者様に指して言います。
「貴方には、この鳥が見える?」
お医者様は女の子が大切そうに抱える鳥籠をさっと一瞥しただけで鼻に付く笑みを湛え、得意満面に答えます。
「ええ、勿論見えますとも」
そう答える事で女の子の心を開けると信じて疑わなかったからです。ですが、お医者様
の予想に反して女の子は憎々しげに顔を歪め
お医者様を鋭く睨め付けました。
「嘘吐き」
凡そ年端もいかぬ少女が発するとは思えない程憎悪に満ちた低い声が、女の子の口から発せられました。それは呪詛のようにお医者様の耳と心臓を貫きます。お医者様は慌てました。
「嘘ではありません。私には鳥籠の中に居る鳥が、貴女が見ている鳥が見えるのです」
慌てふためいて言うお医者様に、女の子は冷たい一瞥をくれます。
「それなら、鳥籠の中に居る鳥がどんな鳥なのか言ってみせて。ねぇ、鳥籠の鳥はどんな鳥?どのくらいの大きさで、どんな色をしているの?ねぇ、答えて?」
お医者様は言葉に詰まりました。すぐには返答出来る筈もありません。何せ、お医者様には最初から鳥籠の中に居る鳥なんて見えていなかったのですから。答えに窮するお医者
様を冷ややかに見つめ、女の子は歪な表情で
せせら笑います。
「ほら、答えられない。貴方には鳥籠の中に居る鳥が見えないからだわ。嘘吐き」
お医者様は図星を指されてぐっと喉を詰まらせましたが、簡単には引き下がりませんでした。お医者様にも意地とプライドがあります。心の病を専門と謳う医者として、その意地とプライドに掛けて、どんなに冷笑を浴びせられても此処であっさりと引き下がる訳にはいかなかったのです。お医者様は懸命に想像力を働かせ、鳥籠の中に居る鳥を思い浮かべようと努めました。
「ええと、小さくて、色は薄黄色の…」
それでも元々の想像力が乏しい所為か、どうしても鳥籠の中に居る鳥を上手く想像する事が出来ません。答える声も自然としどろもどろになります。女の子は調子外れなお医者様の言葉を最後まで聞こうともせず、徐に首を横に振りました。
「もう結構よ。鳥籠の中に居る鳥はそんな鳥
じゃないわ。お帰り下さいな」
女の子に突っ撥ねられ、お医者様は到頭匙を投げて悄々と引き下がりました。女の子の両親は溜息を漏らしました。
二人目のお医者様はやたらと険しい顔付きの、無口で冷たい印象のお医者様でした。女の子の両親が、娘が毎日空っぽの鳥籠を抱え、中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺めていると相談すると、お医者様はそれは大変だと顔を顰めました。それは心の病に違いない。早急に手を打ちましょうと深刻に言うので、女の子の両親はお医者様に任せる事にしました。
お医者様は早速女の子の部屋へ行き、空っぽの鳥籠を抱えてうっとりと幸せそうに中を眺める女の子に会いました。二人目のお医者様は一人目のお医者様のように気軽に話し掛けたりはしません。にこりともせず、ただ一言の挨拶すら口にしようともせずに、空っぽの鳥籠を抱えて中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺める女の子をじっと観察します。その視線はお医者様というよりは陰気な研究員のようです。女の子は陰気な視線でじっと自分を観察するお医者様をちらりと見遣り、また新しいお医者様を両親が呼び寄せたのかと内心で溜息を吐きました。しかしそれをおくびにも出さず、女の子は何も言わずに視線を鳥籠の中に居る鳥に戻します。暫くして、空っぽの鳥籠を抱えて中に居もしない鳥をうっとりと幸せそうに眺める女の子をじっと観察していたお医者様が、漸くしかつめらしく口を開きました。
「君が大切そうに抱えているその鳥籠は空っぽだ。中に鳥なんて存在しない」
お医者様の不躾な否定の言葉に、女の子はちらとも視線を寄越さず、鳥籠の中に居る鳥を見つめたまま平然と言います。
「居るわ。鳥籠は空っぽなんかじゃない。鳥はちゃんと鳥籠の中に居るのよ」