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背中越しのラヴソング

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【 1・クリス・オディアム ‐DAY 一日目‐ 】

 俺はサングラスを外し、目をこすった。上手く、文字が読み取れないのだ。
 だが、それは何度やってみても同じ事だった。頭上の看板に“当駅”と赤く刻まれたその下には、今現在俺がいる、営団地下鉄の“常代(とこしろ)駅”がある。だが、上手く肉眼で読めるのはそこから分岐して広がるいくつかの駅名のみ。他の駅は線にて繋がってはいるものの、うっすらとぼやけてまるで読み取る事が叶わなかった。
「何だよ、これ」
 呟いてみても現状はまるで変化しない。切符売り場の前を行き交う人の群れが、やけに鬱陶しく感じられた。
 困ったな、これじゃあ電車にも乗れやしない。思いながら、同時に疑問が沸き起こる。
 ――電車に乗るって? お前一体、どこに行くつもりだよ。
 その通りだな。俺は鼻から大きく息を吐き出しながら、肩の力を抜いた。
 どこかパニックになっている自分を理解していた。――俺は、俺自身すら判らないのだ。まず、無駄に足掻く前に落ち着けよ。
 思いながら振り向く。少し向こうに見える駅中の喫茶店のガラス窓に、俺自身であろうやけに背の高い姿が映っていた。
 よれたジャケットに、膝の開いたジーンズパンツ。とさかのように逆立てた髪はやけに雑で、情けないほどの垂れ目を隠そうと、俺は外したサングラスを再びかけた。
 思う事はただ一つ。――俺って、白人だった訳?
 そんな事すらも記憶に無いのだ。やけに徹底した記憶喪失だなと思いながら、俺は南口の出口方面へと歩き出した。

 夜が近付いていた。
 傾きかけていた陽は更に大きく傾いて、今やシルエットになりつつある向こうのビル街の谷間へと落ち込みそうになっている。
 やばいね、俺ぁどうしたらいい? 思いながら歩く路地の向こうで、ポッと一つ、ネオンが瞬いた。
“瑠璃”と言う名の立て看板。見た感じは、バーか何かの類だろう。雑居ビルの横から、地下へと降りる狭い階段が見えた。
 一度はその前を通り過ぎた。そして立ち止まり、引き返す。
 意味は無い。ただ、気が向いただけだ。俺は心でそんな言い訳をしながら、饐えた匂いの立ち込めるその階段を下って行った。

 店内は、予想した以上に狭かった。
 ただ、Lの字に曲がったカウンターテーブルと、四つしかないスツールが設えられてあるだけ。
 室内はやけに暗く、その暗がりで顔の上半分が隠れてみえるバーテンダーが一人。
「いらっしゃい」
 声を掛けられ、そして慌てる。もはや引き返す訳にも行かないかと思い直し、俺は一番奥のスツールへと腰掛けた。
「いーらっしゃい」
 バーテンダーの男はもう一度、やけにスローな同じ台詞で俺を迎えた。
 口元は笑っているが、影に上手く隠れて見えないその表情がやけに腹立たしい。
「ビールを。――グラスで」
 俺が言うと、ふんと鼻を鳴らすような返事で男は頷く。俺は傍らに積み上がった灰皿を一つ取り上げ、ジャケットの内側からマルボロの箱を取り出した。
「どこから?」
 目の前に、グラスを置くと同時に男は聞いた。
 どこから――か。そんなの俺が聞きてぇよ。思いながら俺は、無言で店のドアを指差した。
「あははは、確かに」
 男は笑い、そして殻の付いたままの南京豆がいくつか入った皿を、グラスの横に並べた。
「なぁ、この辺りに泊まれる安い宿とかある?」
 俺は冷えたグラスを手に取り、大きく呷りながらそう聞いた。
「宿? ――宿、ねぇ。あるって言ったらあるけど、あまりおすすめ出来ないなぁ」
「どうして」
「まぁ、いわゆる連れ込み宿って所ばっかさ。素泊まりと、ラブホテルの中間ぐらいの所かな。そう言う場所ならこの街の至る場所にある」
「なるほど」
「もし安全に寝泊まりしたいってんなら、改札向こうのビジネスホテルでも訪ねるんだね。でも、相当にぼったくるよ。朝食だってめっちゃショボいしね」
 俺は、「ふぅん」とだけ返事をして、また一口ビールを呷る。心なしか、やけに味気ない喉越しに感じた。
「ところで、ここってどんな街な訳?」
 聞けば男は、「どんな街って?」と、オウム返しに聞いて来る。
「いや、だから――」言葉に詰まる。
「どこの県の、どこ辺りにあるどんな街なのかって話だよ。特産物は何だとか、こんな有名人が出た所だとかさ。色々あんだろう? そう言う話」
「あぁ……」
 男は笑った。相変わらず、口しか見えない笑い顔でしかなかったが、間違いなく男は笑っていた。
「やっぱり聞きたい? どうして自分がこんな見知らぬ街にいるのかって事」
「見知らぬ街って――」俺はグラスを叩き付けるようにして置くと、思わず身を乗り出していた。
「アンタ、それどう言う意味だ? 俺の事、なんか知ってるのか?」
 聞けば男は、「いやぁ」と、困った声をあげながらまた笑った。
「語るには、ちょっと時間が足りないよね。もうそろそろタイムリミットだし?」
「タイムリミット? 何が――」
 ぐらり。世界が揺れた。
 いや、多分だが揺れたのはきっと俺自身。カウンターの向こうでは男が変わらぬニヤけ顔でグラスを磨いている。
 ふと見上げた壁に、午後の七時を示すアナログな時計があった。
 ゴツンと音がして、俺の頭がガラス張りのカウンターの上に落ちる。
「おやすみぃ」
 頭上で、男がやけにふざけた事でそう言った。
 そして静かに、闇が訪れた――。



作品名:背中越しのラヴソング 作家名:多嶋ハル