魂の存在と不滅性
それは、原子生物であり強い再生能力をもったプラナリアを用いた実験であり、プラナリアの脳を破壊して、破壊する以前の記憶を覚えているかどうかを確かめる実験である。研究チームは、プラナリアが餌を見つけることを覚えたことを確認した後、プラナリアの頭を切り落として、ニ週間かけて再生させ、以前の記憶を覚えているか確認した。するとプラナリアは、餌を安易に見つける事ができた。頭部を切り落とされたにも関わらず、頭部の再生したプラナリアは以前の記憶を覚えていた。この記事の詳細は、よく吟味されなくてはならないだろうが、この結果が事実ならば、記憶は脳に存在しておらず、別の場所に存在するという科学的証明が得られたことになる。これは、ベルグソンの言う記憶は脳に存在していないという主張と一致する。
記憶が脳以外のどこかに存在するにせよ、また集合意識と呼ばれるものがあるにせよ、精神の総体であり、魂とも呼ぶべき記憶が身体の朽ち果てた死後もなお存在しているのならば、魂とはまた不滅であると言えるのではないだろうか。ベルグソンも、精神の生が脳の生を超え、脳が、意識のなかに生じていることのわずかな部分を運動に還元するだけの仕事をするならば、意識が死後もなお残るという考え方は極めて真実味をおびてくるとまさに主張する。これは、われわれにとって、極めて重要な、われわれはどこから来て、何をして、どこにいくのかという問題へのベルグソンのアプローチであろう。
小林秀雄が魂について講演の中で、面白い事を言っていた。「諸君は死んだおばあさんを、なつかしく思いだすことがあるだろう。その時、諸君の心に、おばあさんの魂は何処からか、やって来るではないか。これは昔の人がしかと体験していた事で、平凡なことで、また同じように真実なことだった。」
私は、父を数年前に亡くしたのだが、わたしの記憶の中に、父の思い出がある。父の死後もその魂はなお存在しているのならば、私が記憶の中の父を思い出す時、父の魂がやってきて、父の魂とまた触れ合っているのでないだろうか。
三島由紀夫の著作の一つである『豊穣の海』は、時代を超えた個体間で精神や魂の形が引き継がれていく連続性が背後にあるが(5)、ここに見られるような輪廻転生も魂が死後もなお存在しているのならば、個人が過去生を持って現在を生きている可能性もありうるのであり、それは自然な事として、受け入れられるのではないだろうか。
また、世界各国の宗教の中で見られる、死後、魂が裁きを受けるという考えも、記憶の総体、全てを持つ魂が、裁きを受けると思えば、納得ができるのではないだろうか。
魂の存在とその不滅性も、かってしかと知られていた真実なのではなかったのかと思う。ベルグソンを読むことで、生の意味と死の意味を改めて考えるきっかけとなった。
参考資料
(1)『小林秀雄 学生との対話』国民文化研究会・新潮社編
(2)『精神のエネルギー』ベルグソン 宇波彰訳
(3)『方法序説』デカルト 谷川多佳子訳
(4)http://saigaijyouhou.com/blog-entry-599.html
(5)『三島由紀夫 作品に隠された自決への道』柴田勝ニ