魂の存在と不滅性
魂の存在と不滅性
長谷川広泰
脳死とは完全な死なのだろうか。昨今、脳の構造、働きが科学的に明らかになるにつれ、脳活動の停止は、精神活動の停止、つまり脳死とは人間としての死そのものであるという認識が定まったように思う。私自身も、脳活動の停止である脳死を死と考え、脳活動の停止は、永遠の終わりであろうという漠然とした考えを持っていた。この問題は、既に片付き、決着がついた問題なのであろうか。
この問題は還元するならば、脳と精神の現象とは、並行的な対応関係を持っているという心身並行論という仮説に基づいている。科学的に脳活動が明らかになれば、精神活動というものも詳細に分かるという道を突き進んできた結果生じた結論だと思われる。
心身並行論は、学生時代に、一度、私を捉えた問題なのであるが、その後、あまり深く考えないままに脳活動の停止を死と捉えていたように思う。最近、新潮社より出版された小林秀雄『学生との対話』(1)という本を購入して読み、再度、この問題について、考えるようになった。この本は小林秀雄が、九州に赴いて、全国六十余の大学から集まった三、四百名の学生や青年たちと交わした対話の記録であり、一度、カセットテープやCDに音声として記録されていたものが、今回、文字として起こされたものである。この対話の中で、脳と精神現象との関係について触れた話があるのだが、学生の時に聞いたその後、対話の中身については放置していた。しかし、最近また小林秀雄の本を購入した事で、また新たにこの問題について考えるようになった。
脳と精神の現象が並行関係にあるという心身並行論について考える時、やはり小林秀雄が影響を受けたというフランスの哲学者ベルグソンを読まなければならないだろう。ベルグソンも小林秀雄と同様に、私が学生の時に熱心に読んだ哲学者である。心身並行論についてまた考えるにあたり、ベルグソンの論文・講演を集めた著作『精神のエネルギー』(2)を読み解いた。
科学が観察と実験から明らかにすることは、対象のあいだの何らかの関係である。この関係とはどのようなものであろうか。
科学は、科学的な手段により、物事の関係性を探る学問である。その手段とは、外的な観察から対象を数値化し、その関係を数学的に明らかにしていくことにある。精神を理解する為に、科学が用いる手段とは、脳内の原子・分子の活動を数値化し、それと精神の状態との間の関係を求めれば全ての精神の活動は理解できるという心身並行の厳密な仮説を立てる事である。
しかし、小林秀雄の言うように、精神の活動を理解するにあたり、自然は精神の状態と脳の状態という、二つの表記方法を許しているのであろうか。自然の事物は、元来、二つの表記をもたないであろう。この二種の表記が生まれる発端となる哲学は、精神と物質とを明確に二分化したデカルト主義に行き着く。デカルトは、その著作『方法序説』(3)の中で、「われ思う、ゆえにわれあり」と精神と肉体とを明確に区別している。
ベルグソンによると心身並行の関係には、観念論と実在論をいったりきたりする矛盾が含まれており、哲学の錯綜が生じている。われわれの科学と心理学が完全ならば、一定の精神の状態に対応した脳の状態が分かるだろうが、その逆の脳の状態から、新しい何か予見できないものである精神の状態を選ぶ事は、脳の同じ一つの状態に対応するものを、適合する多くの異なった精神の状態のなかから選ぶことになり、それは不可能である。
それでは脳とは、一体どのような器官となるのか。ベルグソンによれば、脳は思考・感情・意識の器官ではなく、意識・感情・思考が現実の生活に向けられるようにし、その結果として効果的な行動ができるようにしている。つまり、脳とは生への注意の器官であると言う。精神の活動にとっての脳の活動の関係は、交響曲にとってのオーケストラの指揮者のタクトの運動の関係である。交響曲は、それを区分するすべての運動をこえる。それと同じように精神の生は脳の生を超える。しかし脳は精神の生から、運動のかたちにして演じうるもの、物質化できるものを取り出し、物質の中に精神が入り込む点を構成する。そのことによって、精神が状況に適応することを保障し、精神をたえず現実と接触させている。例えば、脳の物質に軽い変化を与えてやれば、精神全体が犯されているように見えるのはこの理由からである。
ベルグソンの生きた時代では、脳の中でひとつの場所を指定できるただひとつの思考の機能は、記憶作用であり、語の記憶作用であった。この部分が損傷を起こすと、語の記憶作用に関わる失語症が生じる事が確かめられていた。もしも記憶内容が、ハードディスクやその他の記憶媒体と同じように脳に記憶され、記憶内容が記憶から消えるとすれば、それは記憶内容が収められている解剖学的要素が変化したことになる。
失語症を研究したベルグソンは次の様に語る。脳は、記憶内容を保存するのではなく、それを想起するのに役立つかのように働いている。失語症患者は、必要な時にそれを見つける事ができなくなり、患者は周囲を回っているだけで、明確な点を置くために求められる力が無いように思われる。進行性の失語症では、一般的に語は決まった順序で消え、まるで病気が文法を知っているかのようである。この消える順番には法則性があり、先ず固有名詞、普通名詞が消え、続いて、形容詞、動詞が消える。その理由は、固有名詞は、普通名詞よりも、普通名詞は形容詞よりも、形容詞は動詞よりも想起することが困難だからであり、動詞は直接身振りで表現できるが、形容詞は動詞を媒介することでのみ表現される。名詞は、形容詞と形容詞に含まれる動詞と言う二重の媒介で、固有名詞は普通名詞、形容詞、動詞という三重の媒介で表現される。これには、複雑化される一つの運動の流れがあり、脳はその運動の準備をしており、脳の傷が深ければ、その運動は小さくなり、簡単になるために、語の消失は進むのである。
失語症の研究から導き出されたベルグソンの結論は、もしも記憶内容は脳の内部には存在していないのならば、記憶内容は精神の中に存在し、精神とは何よりも記憶内容を意味しているとの断定であった。ここにベルグソンの力強い確信を感じる。そして、ベルグソンは次のように述べる。人間の精神とは意識そのものであり、意識は何よりも記憶作用を意味している。人間の運命とは何よりも行動することであり、生と行動は未来を見ている。過去の全体はたえずそこにあり、いわばひとつのピラミッドであって、たえず動いているその項がわれわれの現在と一致するところで、その現在とともにわれわれは未来へと進んでいく。
記憶について、インターネットで調べてみると、面白いブログの記事(4)を見つけた。
長谷川広泰
脳死とは完全な死なのだろうか。昨今、脳の構造、働きが科学的に明らかになるにつれ、脳活動の停止は、精神活動の停止、つまり脳死とは人間としての死そのものであるという認識が定まったように思う。私自身も、脳活動の停止である脳死を死と考え、脳活動の停止は、永遠の終わりであろうという漠然とした考えを持っていた。この問題は、既に片付き、決着がついた問題なのであろうか。
この問題は還元するならば、脳と精神の現象とは、並行的な対応関係を持っているという心身並行論という仮説に基づいている。科学的に脳活動が明らかになれば、精神活動というものも詳細に分かるという道を突き進んできた結果生じた結論だと思われる。
心身並行論は、学生時代に、一度、私を捉えた問題なのであるが、その後、あまり深く考えないままに脳活動の停止を死と捉えていたように思う。最近、新潮社より出版された小林秀雄『学生との対話』(1)という本を購入して読み、再度、この問題について、考えるようになった。この本は小林秀雄が、九州に赴いて、全国六十余の大学から集まった三、四百名の学生や青年たちと交わした対話の記録であり、一度、カセットテープやCDに音声として記録されていたものが、今回、文字として起こされたものである。この対話の中で、脳と精神現象との関係について触れた話があるのだが、学生の時に聞いたその後、対話の中身については放置していた。しかし、最近また小林秀雄の本を購入した事で、また新たにこの問題について考えるようになった。
脳と精神の現象が並行関係にあるという心身並行論について考える時、やはり小林秀雄が影響を受けたというフランスの哲学者ベルグソンを読まなければならないだろう。ベルグソンも小林秀雄と同様に、私が学生の時に熱心に読んだ哲学者である。心身並行論についてまた考えるにあたり、ベルグソンの論文・講演を集めた著作『精神のエネルギー』(2)を読み解いた。
科学が観察と実験から明らかにすることは、対象のあいだの何らかの関係である。この関係とはどのようなものであろうか。
科学は、科学的な手段により、物事の関係性を探る学問である。その手段とは、外的な観察から対象を数値化し、その関係を数学的に明らかにしていくことにある。精神を理解する為に、科学が用いる手段とは、脳内の原子・分子の活動を数値化し、それと精神の状態との間の関係を求めれば全ての精神の活動は理解できるという心身並行の厳密な仮説を立てる事である。
しかし、小林秀雄の言うように、精神の活動を理解するにあたり、自然は精神の状態と脳の状態という、二つの表記方法を許しているのであろうか。自然の事物は、元来、二つの表記をもたないであろう。この二種の表記が生まれる発端となる哲学は、精神と物質とを明確に二分化したデカルト主義に行き着く。デカルトは、その著作『方法序説』(3)の中で、「われ思う、ゆえにわれあり」と精神と肉体とを明確に区別している。
ベルグソンによると心身並行の関係には、観念論と実在論をいったりきたりする矛盾が含まれており、哲学の錯綜が生じている。われわれの科学と心理学が完全ならば、一定の精神の状態に対応した脳の状態が分かるだろうが、その逆の脳の状態から、新しい何か予見できないものである精神の状態を選ぶ事は、脳の同じ一つの状態に対応するものを、適合する多くの異なった精神の状態のなかから選ぶことになり、それは不可能である。
それでは脳とは、一体どのような器官となるのか。ベルグソンによれば、脳は思考・感情・意識の器官ではなく、意識・感情・思考が現実の生活に向けられるようにし、その結果として効果的な行動ができるようにしている。つまり、脳とは生への注意の器官であると言う。精神の活動にとっての脳の活動の関係は、交響曲にとってのオーケストラの指揮者のタクトの運動の関係である。交響曲は、それを区分するすべての運動をこえる。それと同じように精神の生は脳の生を超える。しかし脳は精神の生から、運動のかたちにして演じうるもの、物質化できるものを取り出し、物質の中に精神が入り込む点を構成する。そのことによって、精神が状況に適応することを保障し、精神をたえず現実と接触させている。例えば、脳の物質に軽い変化を与えてやれば、精神全体が犯されているように見えるのはこの理由からである。
ベルグソンの生きた時代では、脳の中でひとつの場所を指定できるただひとつの思考の機能は、記憶作用であり、語の記憶作用であった。この部分が損傷を起こすと、語の記憶作用に関わる失語症が生じる事が確かめられていた。もしも記憶内容が、ハードディスクやその他の記憶媒体と同じように脳に記憶され、記憶内容が記憶から消えるとすれば、それは記憶内容が収められている解剖学的要素が変化したことになる。
失語症を研究したベルグソンは次の様に語る。脳は、記憶内容を保存するのではなく、それを想起するのに役立つかのように働いている。失語症患者は、必要な時にそれを見つける事ができなくなり、患者は周囲を回っているだけで、明確な点を置くために求められる力が無いように思われる。進行性の失語症では、一般的に語は決まった順序で消え、まるで病気が文法を知っているかのようである。この消える順番には法則性があり、先ず固有名詞、普通名詞が消え、続いて、形容詞、動詞が消える。その理由は、固有名詞は、普通名詞よりも、普通名詞は形容詞よりも、形容詞は動詞よりも想起することが困難だからであり、動詞は直接身振りで表現できるが、形容詞は動詞を媒介することでのみ表現される。名詞は、形容詞と形容詞に含まれる動詞と言う二重の媒介で、固有名詞は普通名詞、形容詞、動詞という三重の媒介で表現される。これには、複雑化される一つの運動の流れがあり、脳はその運動の準備をしており、脳の傷が深ければ、その運動は小さくなり、簡単になるために、語の消失は進むのである。
失語症の研究から導き出されたベルグソンの結論は、もしも記憶内容は脳の内部には存在していないのならば、記憶内容は精神の中に存在し、精神とは何よりも記憶内容を意味しているとの断定であった。ここにベルグソンの力強い確信を感じる。そして、ベルグソンは次のように述べる。人間の精神とは意識そのものであり、意識は何よりも記憶作用を意味している。人間の運命とは何よりも行動することであり、生と行動は未来を見ている。過去の全体はたえずそこにあり、いわばひとつのピラミッドであって、たえず動いているその項がわれわれの現在と一致するところで、その現在とともにわれわれは未来へと進んでいく。
記憶について、インターネットで調べてみると、面白いブログの記事(4)を見つけた。