三部作『三猿堂』
結局史佳は智樹と付き合うことにした。そして、みなみはあれから会社を休んだままだ。退職する前に有給休暇が残っているのでそれを使いきるまでは史佳の前にあるデスクはみなみのデスクだ。
史佳もみなみと連絡を取ろうとは思うのだがなかなかその気になれず時間だけが過ぎていった。自分への試練として、三猿堂で買ったピアスはしばらく着けないでおくことにした。すると、当然の報いであるかのようにウワサ話が頭の上を飛び交うようになった。
「相原さんの彼氏を高松さんが奪ったそうよ」
「ひどい話ね」
「それでみなみちゃん、会社辞めるんだから」
「ほんと、ほんと」
何を言われても構わない。自分は自分の意思で生きる道を選んだ。聞きたくないウワサを言われることで気持ちも仕事もうまくいかなくなっている。
それは受け入れなければならないことだと自分で十字架を背負うことを決めた。
* * *
そんな盆も過ぎたある日、史佳はいつものように出勤すると、しばらく主のいなかったデスクにみなみが座っているのだ。最後に会った時と違って髪は少し短くなって、あの眼鏡を掛けている。
「史佳、久しぶり」
みなみはニコッと笑った。久しぶりに見る屈託のないその笑顔、本当は会いたかったのにその笑顔を見ると複雑な気になると同時に負い目を感じずにはいられなかった。
「今日で、正式に退職するんだ」
みなみが言うには、今日で退職するのでけじめを付けて挨拶に来たと言うことだ。「後ろ向きな理由で辞めるって思われたくないから」というのは嘘じゃないみたいだ。
史佳は頷くだけだった。本当は言いたいことは山ほどある、それと、謝らなければならないことも――。史佳は頭の中で言葉を探したが何から言えばいいのかまとまらない。
「本当に会社辞めちゃうの?」
「うん――」みなみはこくりと頷いた。
「そう――」史佳はうつむいた。何から言い出したらいいかわからない。徒らに時間が過ぎる。
「史佳、いいんだよ」
「えっ?」
予想しなかったみなみの言葉に史佳は驚いてその顔を見た。そしてみなみは微笑みながら例の眼鏡をはずして手にした。
「言わなかったっけ?『私、人の考えていることが見えるんだ』って」
「そうだった」
みなみの眼鏡が目に入る。そういえば彼女もあの『三猿堂』で眼鏡を買ったのだった。
「ってことは……?」
史佳はみなみの言いたいことがだいたい分かった。それを確認するのがいいことかどうかは分からない。でも、どうしても確認したいことがあった。
「みなみぃ、一つ聞いてもいい?」
「いいよ」手にした眼鏡を再び掛けた。
「みなみは、会社辞めること決まってるって言ってたよね?」
「うん」
「じゃあ、なんで藤吉に告白したのさ?」と質問したと同時に前に立つ課長に名前を呼ばれてみなみは返事をして立ち上がった。
「私も最後に一言だけ、言わせて。本当はね、私の方が史佳にイジワルしてやろうと思ったんだ、ごめんね」
そう言われると史佳は固まったように動けなくなり、前に歩いて行くみなみの後ろ姿をじっと見たまま、彼女と出会った時から今までのことが走馬灯のように甦ってきた。
「みなみ……」
みなみはすべて本当に見えていたのだと史佳は悟った。自分の本心と智樹の本心が、そして、彼女自身も――。
「えー、相原君だけど、実家の仕事を継ぐことになり……」
前で課長のMCで横に立つみなみが挨拶をする。だけど史佳の耳には入ってこない。それは彼女との思い出がまだ頭から離れてくれないからだ。
みなみの告白。それは叶うことのない淡い恋心だったのだ。たとえ叶ったとしてもみなみは実家に帰ることになっていたのだから、遠くない将来に終わってしまう。それでも自分を通したかったのだ。
「じゃあ、なんで?」
それもみなみは答えてくれた。
「史佳にイジワルしてやろうと思ったんだ」
みなみが見えていたのはそれだけではない。自分と智樹が付き合うことになると言うことも、すべて分かって、それを望んでいたのだ。ひょっとしたらじれったいと思っていたのかもしれない。そう思うと史佳の視線は上に上がった。すると、みなみはこちらを向いている。
「短い間でしたがありがとうございました、
今度の慰安旅行にはうちの旅館を是非どうぞ!」
挨拶が終わって拍手が聞こえた。彼女が眼鏡を掛けているのは未練なくこの場に区切りを付けたいのだろう。彼女は今の自分の状況をうまくやりこなしている。
「みなみにはかなわないわ」
史佳は一人呟いて、一回りも二回りも前に進む努力をしているその姿を部屋から出ていくまで、その目に焼き付けた――。
史佳は何かを許されたような気になった。みなみのことば、そして立ち振舞い、自分のやっかいな欠点になりかねない力を道具を上手に使うことでうまくコントロールしている。そう考えた史佳は去っていった親友に倣ってピアスを着けることにした。
「……あれ?」
ピアスを着けているのにウワサ話が聞こえてくる。史佳は黙って耳をその方向に向けて澄まして聞いてみた。
「みなみちゃん、失恋が理由じゃなかったんだ」
「切ない恋物語よねえ」
「ホントにねえ」
「……が……で」
「……ってホントに……」
ピアスを着けていというるのにウワサ話が聞こえる。途切れ途切れな部分はあるが、聞こえるところはハッキリと。
「ということは――」
聞こえる部分はウワサじゃないのだ。みなみの言うことに嘘など全くないのがわかると、気分が軽くなってきた。
史佳はデスクの下で携帯を操作し、みなみにメールを打った。
「ありがとう、みなみ
今は気持ちが整理できてないけど、
いつかはそっちに、遊びに行くよ」