三部作『三猿堂』
史佳は外に出るときはいつもこのピアスをつけることにした。すると、これが不思議なもので、面白いように人のウワサ話が聞こえないのだ。通勤電車でも、職場の中でも、とにかく自分の頭の上を飛び交う話が格段に減り、世間はこんなに静かだったのかと思うほどだ。
テレビで話題の〇〇だとか、行列のできるレストランなどは結局誰かが故意にウワサを流したものだということがわかると、なんとも他愛のないことに振り回されていた今までの自分がバカらしくなった。
そんなくだらないウワサが聞こえなくなった史佳のバイオリズムは確実に快方に向かっており、日々の仕事にもリズムが出てきた。
「余計なこと、聞こえなかったら集中力は上がるじゃん」
史佳は小躍りするような気持ちで今日も出勤、自分の部屋に着いた。
「おっはよーございまーっす」
史佳はタイムカードを押しつつ、元気良く部屋の奥まで通る声であいさつをした。先に出勤している数名の女子社員が一度こっちを見たあと、すぐに頭を元の位置に戻して、何やら話している。
「……また誰かのウワサ話かな?」
と史佳は邪推するが耳には入ってこない。そして目もくれずに自分の席に座ってまずはPCの電源を入れた。ぼんやり浮かぶ画面、画面はくっきり浮かんだのにまだぼんやりしているところがある――。PCではない、開いた画面のその向こう。どんよりとした面持ちで正面の席に座っているのは同僚のみなみだ。
「みなみ……」
これまでの雰囲気とは完全に違う。というより真逆に等しい。いつもの勝負メガネは掛けていないし、雰囲気が以前のいつも何かを見透かしたような、そして気を使っているのか少し背を丸くした――。
史佳にしてみれば、みなみは元に戻ったような感じだ。出勤したとき彼女の存在に気付かないくらい目立ってなかった。そのギャップは大きいのに、みなみについてのウワサは全く聞こえていなかったのだ。
「あ……、おはよう」
これは重症だ、負のオーラ全開じゃないか。トラブルなのは明らかだ、これは救ってあげなければ。みなみより一つ年上の史佳は姉心を出して取り敢えず昼休みに近くの喫茶店に行かないかと誘った。
* * *
「みなみぃ、どうしたのさ」
会社のすぐ近くにある行きつけの喫茶店。史佳はみなみを連れてテーブルに向かい合って座った。曇った彼女の表情は依然曇ったままだ。
少しでも元気になって欲しいと思う史佳は彼女が好きなお薦めランチを注文する。
「うん、こないだね。藤吉センパイがうちに来たんだ――」
「えっ?」意外な第一声に史佳は驚いた。「なんだぁ、上手く行ってんじゃん」
史佳は笑いながらみなみの肩を叩くがいつものリアクションが帰って来ない。明らかに様子が変だ。
「何が――、あったの?」
みなみは無言で頷いて、ポツリポツリと話し始めた。
~ ~ ~
今日は勝負の日、史佳の高校時代の同級生である藤吉智樹と付き合ってひと月になる。人の考えが見えるというやっかいな特長のあるみなみには、智樹に実は好きな人がいることを知っていた。
しかし、三猿堂で勝った眼鏡で状況が一変した。この眼鏡は人の考えが見えないというみなみのためにあるようなもので、これを掛けると思いきりが良くなり、ダメ元で告白したら意外とOKしてくれたのだ。
みなみの知る智樹は積極的で、思ったことはハキハキと言う自分を引っ張ってくれるようなタイプであるのだが、いざ付き合って見るとみなみの事を気遣って、余計な事をあまり言わずにそばにいてくれるのだ。眼鏡を通して彼氏を見ているが、智樹は智樹で本当に好きだった人を忘れようと努力してくれているのだとみなみは信じていた。
しかし、そんな金星をつかんだみなみにも一つだけ引っ掛かる事がある。
眼鏡無しには智樹の顔を見ることができないのだ――。
みなみは未だに、智樹の本心を知るのが怖かったのだ。
そして先日、みなみは智樹を部屋に呼んだ。強い決意をもって。
「今日こそは眼鏡を外して、本当の先輩を見る」
本当の意味での勝負だったのだ。
智樹を招き入れたみなみは、事前に用意していた食事、それが終われば彼が並んで買ってきたというスイーツを食べ、好きな音楽をかけてまったりとした時間が流れた。
「センパイ……」
みなみは眼鏡を外して智樹の目を見ようとした。しかし、怖くて見ることができず、智樹の方を向いて目を閉じた。
「――!」
すると、みなみの唇に何かが当たる感触を覚えた。みなみだってもう20代だから、その感触が何か、初めてではないので知っている。嬉しかった。みなみは智樹の目を見ることなんか忘れてしまい、智樹の肩に腕を回した。
~ ~ ~
「キャー、照れるぅ!」
両手を頬に当て完全にちゃかした調子で合いの手をいれる史佳。しかし、みなみの表情は明るくないのを見て史佳のテンションも徐々にトーンダウンした。
「それでね、それで」
みなみの話が続く。
~ ~ ~
唇に何かが触れるその感触がしなくなり、みなみは恐る恐る閉じていた目を開けた。
「センパイ……」
両肩に智樹の腕が乗っている、視線の逸らしようがない。みなみはチラッと智樹の顔を見た。
「みなみちゃん……」
つぶやく智樹。みなみはその顔を見てすべてが見えた。そして目を見ることが出来ずそのまま下を向いた。
「やっぱり、ダメでしたか……」
みなみも心の中で呟いた。彼の中には自分ではない女性がいる。それも自分の知っている。自分の中ではいちばん努力してきたつもりだったが、結局彼の心を振り向かすことができなかったと審判を受けた。
今まで言いたい事を我慢して自分に合わせてくれた智樹に申しわけないとさえ思えた。
「あの……」
みなみは本当の事を言おうと思った。眼鏡がないと智樹を見ることができないと。しかし、しゃべるテンポの遅いみなみが口を開ける前に智樹の方が先に口を開いたのだ。
「ごめん、みなみちゃん。実は俺……」
~ ~ ~
途中で史佳の横やりが入り、みなみの話は止まった。
「ええーっ、それってサイテーの男がすることじゃん!」
つい大きな声が出たので店じゅうの視線を集めてしまい、照れながら頭を掻いて謝る史佳。
「それでみなみは何と言ったの?」
「うん……」みなみは下を向いて黙りこんだ。最近のみなみがハキハキしていただけに、いつものみなみに戻ると何とも違和感があるのを史佳は感じた。
「『知ってた』って……」
「知ってたぁ?それでもみなみは告白したわけ?」
半分呆れた様子で声を漏らす史佳にみなみはこくりと頷いた。
「実はね、私、ちょっと厄介な力があるんだ。だから……」
フォークを持った手を止めて、代わりに眼鏡を取って史佳の前にちらつかせた。
「あのね、私――、目を見ると人の考えていることが見えるの。だから、絶対ダメだと思ったワケなの」
「まあ、そう、だよね」
確かに思い当たる節がある。みなみの指摘はいつも適格だった。自分にも人と違う力を持っていて、さらにその力を無くす物も持っているので、そう驚かなかった。ただ、その力に思い悩んでる彼女の顔を見て、自分と同じものを感じた。
「でも、何で告白したのさ」