三部作『三猿堂』
その日の昼飯前の時間帯、外回りに出た史佳は行きの電車で高校時代の友人である藤吉智樹にメールを打った。出先が智樹の会社の近くなので、時間が空いていればちょっと寄ってやろうという魂胆だ。
やっほー、外回りで近くいるんだけど
すぐに返信が来た。
朝配終わって休憩中。いいよ、ヒマだし
智樹は街中の配送センターで働く配達員だ、朝の配達が終わって営業所横の休憩室にいるとメールの内容。そこは特に部外者出入禁止でないので、史佳も近くに行くとよく立ち寄っていた。というのも、彼を通じて合コンの話を取り付けるためというとても個人的な理由で。
「コンコン」
史佳は元気よく外側の扉をノックしながら口でも言った。
扉の向こうから智樹の太い声がしたので史佳はためらわずに扉を開けた。中に入るといつものことだが、扉の向こう正面には絶対目にはいるように掲示板が掲げてある。
「おおーっ」
史佳が目にしたのは「今週のランキング」だった。その週の業務成績に点数を付け、順位を付けて発表するものだ。
「やるじゃん、藤吉ぃ」
「だろ?」
一番上に載っている名前を見て史佳が言うと得意気に頷く智樹。彼もまた同僚のみなみと同じように公私にわたり調子がいいようだ。
「こないだまで一番なれないって愚痴ってたのに、どしたん?」
史佳はニヤニヤしながら肘で智樹の腕を突いてやった。
「そりゃ、あれさ……。あれよぉ」
「あれって、やっぱり、みなみのこと?」
史佳は予想通りの展開が来ると思いきや、智樹は作業用のベストのポケットからおもむろにリップクリームを取り出して唇に軽く塗るのを見て、ズルッと首をかしげた。プライベートが仕事にリンクしているということではないのか?
「違うよ、これよ、これ」智樹は得意気な顔で手にしていたリップクリームをつまんで史佳の顔の前で示した。
「これって、ただのリップクリームじゃん」
「それがただのリップクリームじゃねーんだ――」
史佳がリップクリームに手を伸ばそうとしたところで智樹は手を引っ込めてポケットにリップクリームをしまいこんだ。
「まじないみたいなもんでよ、これ付けてたら余計なこと言わなくなるんだ。口が滑らないっつーか」
「リップクリームって唇を滑らかにするものなのに、逆じゃね?」
「逆だからおもしれーだろ?なんだったけ、詳しくは言えねえケド近所の猿の彫刻が壁にある古ぼけた店のオッサンが勧めてくれたんだ」
史佳は今朝、みなみが眼鏡について話していたことを思い出した。二人に共通することは、いわゆる勝負アイテムで上手くいっていることだ。それも本来の効果とは逆の効果を生むもので自分達のウィークポイントを上手に克服している。
「何で教えてくれないのさ?」
「えーと、それはだな」急にしどろもどろになって、窓から見える自分の配送車に立ちふさがった。
「企業秘密、そう。それ。頼むからクルマは見ないでくれよ」
「なんか怪しいな……」
隠しているのは明らかだ。それは彼女になったみなみとの決め事なのか?史佳は勝手に邪推した。
とにかく、勝負アイテムで上手くいくそんな二人、もっと言えばラブラブな二人が正直に羨ましく思えた。
思えば高校時代に目の前の智樹といい雰囲気になったことがあった。智樹の方が史佳に気があって、史佳もまんざらでなかった。ただ、その時に二人を揶揄するウワサが史佳の耳に入り、結局それから気まずくなって、進展はなく二人は現在の世間一般に言う「良い友達」のまま、今ではいい腐れ縁である。異性だけど垣根無しに話ができる人物の一人だ。
しばらくして遠くから誰かの話し声が聞こえてきた。それもこっちに近付いて来る。
「藤吉先輩って最近丸くなったくね?」
「ああ、喧嘩っ早くないっつーか……」
「爆弾踏まなくなった」
「そうそう」
「ヤバくても口、滑んねーんだよな」
「いいよな、彼女もできて」
「彼女って、アノ人?」
「どうやら違うみたい、眼鏡かけたおっとりしたコらしい」
「先輩モテるなあ、俺もあやかりてーよ……」
その声が徐々に近づいて来ると、朝配達を終えた他の配達員も帰ってきた。それを迎えてねぎらう智樹。
「ふーん、それで要らんこと喋らなくなって営業の方も上手くいってるってこと?」
「おうよ」
元気良く返事する智樹。史佳は日頃彼が「配達員は件数行ってなんぼじゃあ」と豪語してたじゃないかと言おうと下がやめておいた。
「俺の仕事はサービス業よ。わかる?配達だけじゃあ、儲け増えねーんだ」
「何をエラそうに……」
お互いに笑いあった。智樹の話では、職場の中で仕事の姿勢をめぐって度々衝突があったことを史佳は知っている。そんな中で冗談が言えるのはそれだけ今は仕事がうまくいってるののだろう。
「そっか……」
さっきのウワサ話、智樹の耳には入っていないようだ。史佳の閑話休題はそろそろお開きの様子か。
「じゃあ、私、外回りの途中だから、またね!」
「おう」
ゾロゾロと帰ってきた他の配達員を見ながら史佳は休憩室を出た。会社に着いた時は天候が悪かったのに、外の陽射しはギラギラの太陽で日傘の花が通りを飾っていた。
「あーあ、いいなあ、みなみも藤吉も」
二人を引き合わせたのは自分自身なのに、史佳は二人に嫉妬した。おまけに外の天気。史佳は手で覆いをつくって太陽を見上げた。それだけで汗が吹き出しそうだ。ついでにやる気も奪われる。
史佳の頭の中で、正体不明のモヤモヤが現れた。
「私もそんな『勝負グッズ』欲しいなぁ……」
外回りの途中であるという現実に連れ戻された史佳は気を取り直し、梅雨の合間の暑い街に出ることを決めた。