三部作『三猿堂』
高松史佳(たかまつ ふみか)はウンザリしていた。
天候良くない曇天の朝、通勤電車に揺られながら外の景色を見ていると四方八方からいろんなウワサが聞こえてくる。イケメン俳優の〇〇がAV出身の女優とできているとか、あそこのレストランは美味しくないだとか、話している本人たちは楽しいようだが、聞きたくなくても入ってくる情報というものは概して楽しいものではない。それに、こういったウワサというのは人の悪口や陰口などマイナスのものの方が多い。史佳の場合は不思議なことに、イヤホンをさしている時でさえ人のウワサが耳に入るから少々厄介だ。今日は特段にたくさん聞こえてくる。それだけ誰もが上手くいってないということか――。
高校の時だったか、あまりの地獄耳に同級生から陰でウサギと呼ばれたことがあった。それは当然可愛らしいという意味ではなく、耳がそれだけ立っているということだ。もちろん、そんな陰口も史佳の耳には入っていたし、正義感が強いこともあって表では善人面をしている者を軽蔑の目で見てしばしば衝突もあった。
そして自分自身もウワサに惑わされ決断をためらうことが多く、今までそんな失敗も少なからずあった。
「人の不幸は蜜の味」
とはいうけれど、それで甘い汁を吸った気でご機嫌な人の考え方は史佳には全く理解ができなかった。
* * *
「おはよーございまーす」
会社は駅ビルにあって、電車に乗ればあとは傘が要らないところにある。史佳はタイムカードを押し込みながら挨拶をして、自分のデスクへ。開始の準備をしていると席の後ろの方で同僚が何やらウワサ話をしている。一応聞こえないようにしているつもりのようだが、史佳の耳にはしっかり聞こえている――。
「ねえねえ、聞いた?」
「何が?」
「相原さんよ」
「みなみちゃんがどうかしたの?」
「眼鏡にしたら仕事うまくいくようになったって」
「へぇ……」
「それで彼氏もできたらしいよ」
「内気に見えて、しっかりしてるね」
「でしょ、でしょ?見た目じゃ負けてないのに」
「シーッ、ウワサしてたら来たよ」
後ろで聞こえる二人の会話がそこで途切れたかと想うと、史佳の前方にある扉が開く音が聞こえた。
「おはよーございまーす」
元気のいい声とともに入ってきたのは、さっきまでウワサされていた職場の同期である相原みなみだった。最近買ったという眼鏡が特徴的だ。
今まで目立たないように振る舞っていた彼女が、眼鏡一つでキャラまで変わり積極的になった感じがするのが職場でも話題に上がるはずだと思うのは史佳や同僚だけではないようだ――。
実際に彼女の仕事の業績は上がっているし、プライベートでも良い話がある。他の同僚が妬むわけだ。
「おはよー、みなみ」
「おはよー、史佳」
みなみは史佳の向かいの席に座った。今日も眼鏡をかけている。史佳の覚えているところでは、みなみが眼鏡を掛けるようになったのは先月の合コンからだったろうか、今ではウワサに上がる彼女の特徴は眼鏡である。それだけでみなみを指していることがわかるほどだ。
「最近、調子いいみたいね?」
「うん、まあね」
プライベートのことも当然史佳は知っている。最近みなみが付き合い始めた相手というのは、史佳が紹介した高校時代の同級生だからである。
「みなみぃ、ちょっといい?」
「いいけど、なに?」
最近職場ではみなみの変わりようのウワサで持ちきりである。しかし、当のみなみ本人だけはそんなウワサなんぞどこ吹く風の様子。今までとは大違いのみなみに、同期のよしみとしてそれとなく耳に入れた方がいいと判断した史佳は業務が始まる前のこの時間に、清掃と言って小会議室一緒に来るように促した。
* * *
「あんた、部屋でかなりウワサになってるよ」
「そうなの?」
二人きりの会議室。みなみの声が響いた。
あっけらかんとした表情で笑うのはみなみ。本当にウワサが聞こえていいないのだろう。聞こえないからこそ積極的になんでもことが進むのかと勝手に分析して納得する史佳。
「なんのウワサ?」
「まだ、わからないの?」
腕組みをしてフーッと息を吐く史佳は呆れ顔だ。
「それよ、それ!」
史佳はそう言ってみなみの眉間を指差した。
史佳は思ったことをそのまま話す。時にはこれがキツく捉えられ、しばしば衝突することもあるが、相手は気心の知れたみなみだ。そこに悪意がないのはお互いに承知の上だった。みなみはニコニコしながら頷いて聞いている。
「眼鏡に替えて、仕事がはかどっているのをやっかんでる人がいるみたいよ」
「ふーん、そうだったんだ……」
「それと、プライベートでも」
眉間に差した指を寄り目にして見るみなみは、そのあとクスクス笑い出した。
「人になに言われても、気にしないよ。だって、悪いことしてないもん。それより、眼鏡に変えたのは正解だったよ」
みなみは眼鏡を外して手にとった。
「私にとっては仮面みたいなもので、これがあると思い切りがよくなるのよ、邪念が見えなくなるというか」
いつもより言葉数の多いみなみ、調子の良い時の話し方だ。
「眼鏡なのに見えなくなるって、面白いね」
「でしょ?」
笑いながらみなみは眼鏡を掛け直した。
「どこで買ったの?その眼鏡」
「えーっとね、通り沿いの古いお店で、名前がなんだったっけ。店の前で怪我したゴミ箱が立っているのよ……」
と言ってる途中で始業のチャイムが鳴った。
「とにかく、史佳には感謝してます」
結局史佳は続きを聞くことができず、みなみはお辞儀をしていそいそと駆け足で小会議室を先に出ていった――。
ウワサになってるよと教えてあげることは取り越し苦労のようだ。自分なら気になってしまうのに、みなみの能天気に少し嫉妬だ。