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三部作『三猿堂』

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   ガチャン!

 後方で鈍い音がした。智樹は慌てて車から降りて左後方を確認した。
「あちゃぁ……、やっちまった」
智樹の運転する車のバンパーは見事なエクボを作っている。そして電柱と挟まれてプレスされたごみ箱はクシャっと縮こまったまま電柱にもたれたままだ。電柱は確認していたが、それに添えるように立っていたごみ箱は完全に死角に入ってて、鈍い衝突音がするまで全く気付かなかった。  
「まいったなぁ、で、どこのごみ箱だぁ?」
 智樹は周囲を見回した。ここは街の真ん中、どこを見ても背の高い建物ばかりだ。似たような建物であるが配達回りをする智樹にとってはどの建物も当然把握している。ところが、目の前にある平屋の瓦屋根の建物を見たところで智樹の目の動きが止まった。ごみ箱にマジックインキで書かれた字を見て、その持ち主はここの人のそれであるのが分かった。
「三猿堂……何の店だ、ここは?」
 都会の真ん中にここだけが時代から取り残されたような古い家屋が立っている。配達回りでこのエリアを知り尽くす智樹であるが、ここにこんな建物があることは正直知らなかった。
 古ぼけた看板、欄間に彫られた三匹の猿、見れば見るほど不思議なオーラに引き込まれそうだ――。

 智樹は興味深げに店の中を覗いてみた。どうやら雑貨屋のようだ。客はいないが、白髪の店主がカウンターにいる。智樹はそれを確認するや店の扉を引いた。
「すいませーん……」
「いらっしゃいませ」
店の外であったことに全く気付かない様子で客として来たわけでもない来訪者を迎える。
「いや、そうじゃなくって」
思わず口が滑った。いつものいけない癖だ。
「おたくのごみ箱に車当ててしまったみたいで……」
「おや、それでお怪我はありませんでしたか?」
自分とは違うテンポで進む店主の反応に智樹はちょっとうざったく思った。このまま話を続けても時間ばかりが過ぎる。こっちも配達が残っているので一秒でも早く処理したい――。
「弁償しますんで……、いくら払えばいいですか?」
智樹が口を当てたときはもう遅かった。それが自分本位なセリフであると分かったのは口にした後だ。
 心の中で「しまった」と叫んで店主の顔を見ると、まるで気にしない様子で笑っている。
「この人、何か腹の底に持ってるのか?」
と思い、再び口が勝手に動き出そうとした寸前のところで店主の方から喋りだしたので、火に油を注ぐようなことは幸い止められたかに思えた。
「別に裏なんか、ありませんよ」
智樹はもう一度「しまった」を繰り返した。まるでこっちが腹の底を見透かされているようだ。唾を呑むと店主は笑顔のまま話を続ける。
「ごみ箱なら、結構ですよ。それより、あなたに良いものがありますよ」
「良いもの?」智樹は怪訝そうに店主の様子をうかがう。
「はい、こちらに……」
そういって店主はカウンターの上に一本の小さな円筒状のものを置いて智樹に見せた。
「リップクリーム、ですか?」
 一見どこにでもありそうなリップクリーム。智樹は一応手にとって見るものの、ロゴも書いておらず、ただ黒い円筒だ。それに口に直接付けるものなので、やばいものが入っていたら使うのも危険だ。
「はい、これをつけると口が滑らなくなります」
店主は何のためらいもなく答えた。
「そんなタイムリーなものって、ないでしょう」
また思ったことが口に出た。恥ずかしいを通り越して失礼だ。
「ほっほっほ、それをお買いになる人は皆そう言います。試しに使っていただいても結構ですよ、いかがされますかな?」
店主は瞬きもせずに智樹の目をじっと見つめたまま続けた。抑揚のない、まるでロボットのような喋り口に智樹は逃げられず、金縛りにあったかのように動きが止まった。そして、なぜか「断る」という選択肢は頭の中から完全に消えて、気付けばリップクリームを試しに塗っていた。
「そんなこたぁ……」
 智樹はそれを口に塗ったあとハッとした。何かを言おうとしたのは確かだ、しかし自分の唇がまるで意思を持ったかのように動かなくなり、言わんとすることが封じられたのだ。

「いかがされますかな?」
やはり智樹は店主から目線を逸らすことができない――。
「買います、いくらになるんですか?」 
 智樹はポケットからクシャクシャに入れていたお金をカウンターの上に置いた。千円札が三枚、それを見て店主の顔を見上げると彼は大きくな頷いて、
「いいですよ、3000円でお譲りしましょう」
と答え、智樹はその不思議な力を持ったリップクリームを手にした――。

作品名:三部作『三猿堂』 作家名:八馬八朔