暁
でも、私が欲しかったのは、こんな機械的な暖かさじゃなくて、もっと優しい、彼女の温度だった。
しかしそんな事を面と向かって言える訳もなく、私は誤魔化す様に口を開く。
「ありがと。お金、寮に戻ったら渡すよ」
「いいって。それより、早く飲んだほうがいいんじゃない? 冷めるよ」
妙に冷静な彼女の言葉。
そうだ、彼女はいつだってストレートに言葉を紡いでくる。
──まわりくどい事が嫌い。
そう言った彼女の台詞を、今でも覚えている。
私はどうにも言葉をストレートに表現できないから、いつも遠まわしな言葉を使ってしまう。
その性格が羨ましい。
だからこそ──だからこそ、彼女に惹かれたのかもしれない。
もちろんそれだけじゃない。それも、彼女に惹かれた事の一部だったのだ。
だから気になる。
──彼女は私のどこに惹かれたのだろうか。
「じゃあ、いただきます」
彼女から手渡された缶を開ける。
それに口をつければ、中で広がる一杯の香ばしい風味。
微糖。甘すぎず、苦すぎず、ビタースイート。
まるで私たちの関係の様な、どこかふわふわした関係。
「いくらか、明るくなってきたね」
そう彼女が呟く。私はそれを聞いて空を見る。
確かに、さっきまであんなに暗かった闇夜が、今では牛乳を足したかのように白く濁り始めていた。
「もうすぐ、夜明けだね」
夜明け。それは一日の始まり。
そしてそれは同時に私たちの旅が終わる事も意味している。
少しだけ切ない時間。
夜が終わってしまえば、またしばらくの間、こうやって話をする事もできない。
だから──だから、聞きたい事があるなら、今しかないのだ。
私が彼女に対して聞きたい事なんてそういくつもある訳じゃない。
そして最も聞きたい事はただ一つしかない。
けど、それを聞いてしまったら、何か大事な物がなくなってしまいそうな気がして、私はいつも言葉を濁していた。
そうなれば次善に用意された言葉なら……なんて考える。
何か聞きたい事があるなら今しかない。そう思えば思うほど、私の心を煽る。
今やらなければまた一週間、彼女と会話をする事すら赦されない状況に置かれるかもしれないのだから。
「あの、さ」
「ん? なに?」
しまった!
魔が差した、うっかりはずみで、特に深く考えずに、おおっと。
今考え付く言葉を並べてみた。
煽り、囃し立てる本音が、理性の制御を抑え、うっかり言葉を漏らしてしまった!
このまま黙っているのは流石に気まずい雰囲気を作ってしまう。
言うべきか、言わざるべきか。
ううん、毒を食らわば皿まで、だ。
「前に回りくどい言い方は嫌だって言ってたけど……」
「うん、確かにまだ、まわりくどい言い方はあんまり好きじゃない」
「でも、私の物言いって、かなりまわりくどい言い方する時があると思うんだけど」
そう言うと、彼女は口に手をあて、少しだけ考えてみせた。
「ああ、うん。そうだね」
そして続けてこう言った。
「なんでだろう、そう言われてみればそうなんだけれど、君の言葉は不思議と気にならないや」
照れ臭そうに彼女は笑った。
映画スターのような仕草に、私の胸が更に高鳴るのが解る。
まるで銀幕からそれを切り取ったかの様な、清々しさを彼女は帯びている。
何をやっても“さま”になる。
すべてにおいて平均点以下、またはそれより下回っている私にとって、彼女は羨む存在でもあった。
どうしたら彼女の様になれるのだろう、そう羨ましがっていたのだ。
だから、だから彼女がそう言ってくれるだけで、私の心はどこかに飛んでいってしまいそうな、そんな気分になるのだ。
「わっ、わたしはっ──」
嬉しさでおもわず言葉を噛んでしまった。
ひとつ、ふたつと呼吸を整えてもう一度最初から言う。
「私は、あなたと一緒にこうやって話している事が奇跡に思える」
彼女は私の言葉が意外だったのか、目を丸くさせていた。
「それってどういう意味?」
「いや、ほら、私って何をやっても普通以下だし、正直特徴が無いのが特徴とも言える凡庸な人間だし」
「──そんな事は無いさ」
「えっ?」
彼女は膝を抱えた状態で、顔だけをこちらに向けて言った。
「もし──もし君が例え──君の言う凡庸な人間だとしても、私にとって──特別な──人なんだよ」
「………………」
にやけた顔でそう言った彼女は、すぐに膝に顔をうずめてしまった。
えっ、ちょっと待って。
今、彼女は何て言った?
──特別な人。そう言ったよね?
【特別】[名・形動]
他との間に、はっきりした区別があること。他と、はっきり区別して扱うこと。また、そのさま。格別。
思わず頭の中にインプットされた辞書を開いてしまった。
つまり、彼女の中では、私は他の誰とも違う、はっきりとした明確なラインが引かれているって事だよね。
「そんな、他の人よりも下に見られていたなんて……」
「ちっ、違う! そういう意味で特別だって言ったんじゃない」
「じゃあ、どういう意味で?」
「そっ、それは……」
私は少しだけ意地悪をしてみたくなった。
それだけじゃない、確認したかったのだ。
彼女の口からはっきりと、聞いてみたかったのだ。
「その、他の人よりも……快く思ってる」
「まわりくどい言い方は好きじゃないんじゃなかったっけ?」
「こっ、これは君のが伝染ったんだ!」
「じゃあ、もう一回、聞かせて?」
「むぅ……」
彼女は唇を尖らせて小さく唸った。
そして、言った。
「君の事は──他の誰よりも大事にしたいと思ってる」
やばい。
やばいやばいやばいやばいやばいっっ!
今私絶対に顔がにやけてる。
嬉しい、嬉しくて仕方ない。
他の誰でもない、彼女にそう言われた事が、あまりにも嬉しすぎて、顔に出すのをやめられない。
口に手をあてて顔を背ける。にやけた顔を見られない様にと誤魔化す。
こんな顔、見せられる訳がない。
「ほら、そうやって君は私をからかって笑うんだ」
違う、違う──違う。
からかったかもしれないけど、もしかしたら笑っているかもしれないけど、でも、それは嬉しくてにやけているのであって、決して馬鹿にしている訳ではなくて。
でも、そんな事は彼女に言わないと通じない。たぶんきっと彼女は私がからかって面白がっている様に映っているのだろう。
どうしよう、どうすれば彼女に私の気持ちを伝えられるだろうか。
「あ、あのっ──」
そして、気がつけば、私は大声を出していた。
頭の中でぐるぐると考えが巡る。
寮を抜け出していた事、一人では寂しかった事、もらったコーヒーが美味しかった事、彼女に言われて嬉しかった事。
それらを思い出していた。
そして私が出した彼女への“答え”というものが──
「──卒業した暁には、毎朝コーヒーを淹れてもらえませんかっ!」
「────えっ?」