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暗躍甲冑の後味
暗躍甲冑の後味
novelistID. 51811
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死滅回遊魚の鳩尾

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真っ直ぐに

 西日が部室を四角く照らす。美術室で彼女は太陽から逃げるようにキャンバスを置いて左右に筆を動かしている。僕はそれを斜め後ろから椅子の背もたれに肘を付いて頬杖、という本来の正しい座り方とは真逆の体制で見ている。それがいつもの風景だ。
「何描いてんの?」
 木の板に布を張ったキャンバスに筆で自由に色を塗りたくる背中に問いかけてみる。
 パレットの上にこれでもかという程大量に絵の具を出す。ぐじゅぐじゅと気泡の抜ける音がする。チューブは見るも無残にぺちゃんこだ。パレットの上で暫し絵の具を混ぜた後、キャンバスに筆を滑らせる。塗っては混ぜ、混ぜては塗る。
「何に見える?」
 肩で切りそろえられた髪が頭の動きに従って揺れる。目だけで僕を捉え、答えを待っているようだ。
「海、かな。」
「何で?」
「青いから。」
 僕の答えに満足したのか、それとも馬鹿にしたのか、彼女は口角を上げ、すぐにキャンバスに目を戻した。
 彼女の描く絵は設計図のような緻密さはないが色使いが独特だった。その中でもグラデーションはとてもなめらかに色が移ろっていた。
「みーくんは、青いと海なの?」
 みーくんとは僕を呼ぶあだ名だ。彼女は他のクラスメートは苗字をさん付けで呼ぶのに僕だけをあだ名で呼ぶ。だから僕はゆっちーと呼んでいる。
「何て言うか、空にしちゃ青が暗いと思って。」
「そっか、空はもっと明るいんだね。」
 じゃあ海だね、と彼女は更に絵の具を出して乾いているキャンバスの上部分に海の生物のシルエットを描き足していく。

 夕日がほとんど沈みかけ、辺りはオレンジから紫に変わる。グラウンドからは野球部であろう声とノックの高い金属音が響いている。
 室内はほとんど薄暗い。僕から見ると彼女の絵のグラデーションがよく分からない。しかし彼女は迷うことなくキャンバスに色を塗っていく。
「みーくん、暗かったら電気点けていいよ。」
「いや、大丈夫。ゆっちーはこの方が描きやすいんだろ?」
 彼女はありがと、と一言だけ告げるとまたキャンバスに集中した。それから見回りの先生が来るまで彼女は筆を止めることなく描き進めた。


「うるさい!健常者が色分かるくらいで威張んな!」
 翌朝教室の前で彼女の怒鳴る声が聞こえたかと思えば、教室からすごい勢いで本人が飛び出して危うくぶつかりそうになった。
 教室を見れば彼女の机の周りに二人の男子が突っ立っていた。その手にはわざわざ買ったのか色とりどりの折り紙。何があったのか瞬時に理解した僕は踵を返し彼女を追った。
 唯一行き先に心当たりのある美術室に行くと案の定彼女の姿があった。目に涙を浮かべながら、昨日乾かすために置きっぱなしだったキャンバスの前に立っている。
 無言で振り上げた右手にはカッターナイフが握られている。僕は慌てて振り下ろされる直前の右手を掴む。彼女はそれを振り払おうと抵抗するが、僕も一応男だ。
「みーくん!離せ!!」
「ゆっちー落ち着けって!この絵はもうすぐ完成なんだろ!」
「健常者なら何してもいいのか!何言ってもいいのか!"こんなのも分からないのか"って言っていいのかよ!"障害者は須く自殺すべき"って言って許されるのかよ!健常者なら、健常者なら!」
 抵抗を止め、代わりに大粒の涙を零す。こういう時にかける言葉というものは本当は存在しないんじゃないか、という程僕には何も見つからなかった。自然と僕の手から力が抜けていく。
「分かんない、分かんないよ・・・。折り紙にはどれがどの色かなんて絵の具みたいに書いてなかった。そもそも赤って何の色?青ってどこにあるのさぁ…。」
 今まで溜め込んでいたものを一気に吐き出すかのように彼女は喋り続けた。そして僕は未だに言葉を見つけられないままいつもより小さい彼女をただ見ているだけだった。

 それから、彼女が落ち着くまで部室の隅に座り込んでいた。授業開始のチャイムは疾うに鳴っていたが、自分だけ教室に戻る気はしなかった。
 色のない世界、というものを想像してみる。白黒テレビのように全て無彩色で構成されている世界。色を知らないから、見えるものが本来どんな色なのか、想像出来ない。晴れ渡る青空も、曇天になる。カラフルな虹も七色ではない。実感が湧かないのは、僕が色を知っているからだろう。それがとてももどかしくあった。

「あのさ、ゆっちー。ゆっちーはまだ、マリーの部屋の中にいるんだ。僕達は君より先に出ただけで、何も違わないんだ。多分僕が何を言っても君には都合の良い綺麗事にしか聞こえないと思うけど、でも…。」
 でも、の次に何を言おうと思ったのか、全く出てこない。そもそも言うべきことだったのか。不安に駆られて彼女を見ると、泣きはらした目でうっすら笑っていた。
「ありがと。」 とても消え入りそうな声だった。僕はもう何も言わなかった。言葉にしても真っ直ぐには届かないと思ったから。