花は咲いたか
差し出された銃を受け取ろうとした手は小刻みに震え、首筋をたどり体中の血が頭に駆け上がっていく音が聞こえた。
小芝はうめ花の気持ちを落ち着かせようと、努めて静かな声をつくる。
「自分は、元将軍家御庭番で江戸城にいました。戦国時代からの忍者のような存在で、裏の探索が主な仕事です」
蝦夷では榎本や大鳥の命で密書を運んだり、新政府軍の探索などで表の仕事はほとんどしていないという。それで顔を見ても心当たりがなかったのだ。
小芝という男のことはわかったが、
「どうして暗殺を?」
箱舘軍は蝦夷平定を果たしたとは言っても、日を追うごとに兵力は弱体化し、総攻撃など無駄とも思えるほどに勝敗の行方は明らかだった。
「新政府軍がもっとも怖れているのが、土方歳三という男です」
小芝は土方を物語の英雄を語るように話し出した。
「土方奉行はもう昔の土方さんとは違います。兵たちは皆、土方さんを慕い心からこの人と戦うのならと、命を投げ出す奴ばかりです。そしてあの戦上手と軍神を味方につけたかのような戦い方。新政府軍は土方歳三に、総攻撃をひっくり返されるのではないかと本気で怖れています。少なくとも現在、政権を握った一番てっぺんの人間がそう考えているようです」
「でも、こんなに兵力の差があってどうして?」
小芝は小さく首を振る。
「戦の勝ち負けは兵力ではありません。勝とうと思う人の心です」
「もちろん兵力の差はあきらかです。ですが、この総攻撃に手こずるようなことがあれば、フランス、イギリス、アメリカ、ロシアなどの諸外国はどう思うか。誰もが箱舘軍に注目する。フランスのように(義)を見ることになったら国際法が新政府の政権にまったをかける。その(義)の象徴こそまさしく土方歳三という男なのです、そしてフランスはそれに気付いた。軍事顧問団はそれ故に強制送還されたのです」
小芝の情報は、いち兵士が知り得るはずのない内容であった。
「新政府軍も遊軍隊と称して一般市民を引き入れ諜報活動をしていますが、そんな輩から、こちらも情報を聞き出すのはたやすいですから」
ようやく、うめ花は小芝の話を理解することができた。
「明日の朝、夜が明けないうちに出発しますから、今夜はよく寝ておいてください」
そう言い残して小芝はすうっと姿を消した。
小芝が姿を消した後も、うめ花はしばらく暗い浜に立っていた。
(自分が、土方の暗殺を阻止するのだ)
暗殺はもっとも卑怯な手段で相手の命を奪う行為だ。殺すことに正当な手段もくそもあるか、と思うだろうが、暗殺という行為に正当性はない。
大昔から、こういった正当性のない暗殺や闇討ちという行為に勝者が勝手な大義名分をくっつけ、偉そうに公表してきただけにすぎない。世は明治となり諸外国と交流ができ始め、新しい政権の前にたちはだかったのが国際法だ。
少し前、イギリス公使パークスは、江戸城を無血開城するか、薩長が江戸総攻撃をするかと計画を立てていた折のことだ。総攻撃に備え、負傷者の受け入れを横浜の病院でしてくれないかと西郷隆盛に打診された。その時のパークスの返事が、
「徳川慶喜が恭順の意を示しているのに、総攻撃をかけるなど国際法に反する行為だ」と西郷に詰め寄ったという。
それらの出来事から考えると、降伏の意思を少なからず表明している榎本のいる箱舘に総攻撃を仕掛けるのも、おかしな話なのだ。
だが、土方暗殺命令は出された。そして暗殺者は虎吉。
明日は戦場の中を小芝が先立ち、案内するという。物陰から物陰をまわり、前線の外から狙撃をする作戦だ。
「うめ花さんなら、狙った獲物は遠くても必ず撃ち取るそうですから上手くいきますよ」
小芝が掴んだ情報は、榎本と大鳥に報告され、瞬く間に高松凌雲に伝えられた。凌雲は新政府との降伏時における交渉の切り札とされていたからだった。高松凌雲がうめ花を預かっていることは極秘で榎本らも知らぬことだったが、凌雲の判断で小芝をうめ花のもとへ走らせたのだ。
「私も散々裏の仕事で手を汚してきて言えた義理ではありませんが、土方さんの暗殺は見逃せません」と小芝は言っていた。
戦いの勝敗でもなく、新政府でもなく、ましてや錦の御旗でもない、土方歳三に皆は夢を見ている。うめ花にはそう思えてならなかった。
自分が心から大切と思う男を、皆も失いたくないと思い動いてくれている。うめ花の知らぬところで、知らぬ間に、自分の大切なひとはここまで大きな男になっていたのだと気づき心が震えた。
暗殺。
この幕末から明治にかけて数限りない暗殺が繰り返されひと知れず命は絶たれ、もっともらしい理由をつけて処理されてきた。そのすべてを、何に正当性があって何に正当性がないなどと区別することはできないが。
少なくとも、世には自業自得とか、因縁とか、恨みとか、呪いとか、便利な出来事が起こる。暗殺という正当性のない行為を繰り返している権力者も、同じ報復が訪れることを今はしらない。
うめ花は洋服に着替えた。
久しぶりに銃の具合を何度も点検し、照準をのぞき構えては銃の重さを確かめた。この銃の重さこそが、自分の身体の一部だとでもいうようにしっくりとなじむ。
そして、ひとつひとつゆっくりと確実に、弾を装填する。
まだ夜の明けきらぬ暗いうちに、小芝とうめ花は湯川を出た。
海岸を暗闇にまぎれて進む。小芝は御庭番というだけあってひどく夜目が効くらしい。
「浜なら足音がしませんから行動するにはもってこいです」といっていたが、なるほど波の音しかしない。振り返ると水平線に淡い光が差し始めていた。淡い光にもう一度、土方の無事を祈る。
遠くから戦闘らしき音が響いてくる。すると箱舘湾からも艦砲射撃が始まった。うめ花の心臓も大きな音をたて、無意識に前方の景色に目を凝らした。
まだ夜が明けきらず、戦闘も激しくはないがこの音がうめ花の身体の奥にある血を湧き上がらせる。泉のように湧き上がる血は四方八方に散り、手や足だけでなく体中の末端までうめ花の決意を運び始めた。
「ここで待っていてください。千代ヶ岳陣屋で土方さんの居場所を探ってきます」
小芝はキビキビとした走りで陣屋に向かって行った。愛馬の夕霧から降りると、無意識に土方の上着に手を当てる。今のうめ花に持ち物と呼べるものはスペンサー銃と土方の上着だけだった。
背後の水平線は驚くほど白々と光を放ち始め、箱舘山にはいつの間にか何本もの錦の御旗が翻っているのが見える。
にわかに箱舘山の方角が騒がしくなり、そちらに目を向けた。
確か、あの辺りには新選組と伝習士官隊がいる。そうこうしているうちに湾から市街地に艦砲射撃が始まり、爆音と空中に飛び散る煙がもうもうと立ち上り、箱舘山からも大砲が撃ち降ろされる。
小芝はまだ戻ってこない。陣屋はすぐそこなのに、土方の居場所がわからないのだろうか。
うめ花は土方の上着を馬の背にかけた筵の下に隠し、自分は手拭いでギュッと頬被りをした。
そして夕霧の手綱を引いて静かに歩き出した。
小芝が土方の居場所を探るといったが、今、うめ花は何かに引き寄せられるように歩いている。
ここから見ていても、戦闘が起っているであろう場所はあちらこちらに見える。