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花は咲いたか

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        第九章

 土方は五稜郭を出た。
 まだ陽は登っていないが、明るくなり始めたあたりは新緑の木々が凛とした空気を放ち、今、この瞬間にも輝こうとしている。
 清き緑の中に馬を進める土方は、胸が震えるような幸福感を感じていた。
 蝦夷でなければ、今日でなければ、そして今この時でなければ、この瞬間を感じることはできないだろう。
 木々の揺らす葉、空を流れる雲、生きとし生けるものすべてが土方には愛しいと感じられた。
 この愛おしいものを置いていかねばならない、それを無常というのだろうか。

 今より1時間ほど前。
 海岸より進んできた津軽藩兵が戦端を開いた。
 そして箱舘の新政府軍艦隊から、呼応するように艦砲射撃が始まった。
 総攻撃の開始だ。
 黒田清隆率いる700の兵は、夜のうちに寒川と箱舘山の西北側の山背泊に上陸していた。
 ここ箱舘山に薬師堂がある。
 この薬師堂で待っていたのは、新政府軍の遊軍隊士。といえば聞こえはいいが何か月も前から市中に、使い走りの小者や、弁天台場に志願兵として潜り込んでいた者たちだ。諜報活動の結実である。守備のために知り尽くした箱舘山の山道を間者が案内することで苦も無く薩摩兵は登っていき、山頂に到着した。
 箱舘山の山頂に何本もの錦の御旗が翻った。
 そして、弁天台場と箱舘山の下には新選組と伝習士官隊がいた。

 土方は、この三日間で軍を脱走した兵の残留者を率いて千代ヶ岳陣屋へ出陣した。
 土方の傍らには、新選組隊士で戦死した野村利三郎の後任を務める安富才助、同じく新選組の立川主税。立川は近藤勇の側近だった男で、流山から野村利三郎と土方について蝦夷へ渡った。そして馬丁の沢忠助。土方の側にいる新選組隊士はこの三人だ。
 五稜郭を出ると、すぐに千代ヶ岳陣屋が見えてくる。
 蝦夷での戦を経験してみて、昔と大きく変わったのは武器の洋式化もそうだが、城を構えるのではなく土塁を築くようになったことであろう。この土塁こそが、近代兵器の銃や大砲の登場で築かれるようになったのだ。
 千代ヶ岳陣屋は東西に約130М、南北に150Мの長方形だ。ここに中島三郎助が浦賀奉行所の若い与力を連れ、星旬太郎率いる額兵隊とともに守っていた。この時の額兵隊もすでに兵200を切っていた。
 土方は残留兵と星旬太郎率いる額兵隊の指揮をとり、おそらく市街地へ出陣することになる。
「箱舘山に錦旗があがりました」
物見の兵が、土方と中島三郎助のいる所に駆け込んできた。
「奴らに、箱舘山を取られたな。中島さん、一部額兵隊を連れていくがこらえてくれ」
 土方は淡々とした口調で告げる。
「土方さん、ここは私が死守する。額兵隊を率いて心置きなく戦ってください。あなたと語らうことはもうないかもしれないが・・・」
 中島三郎助の目にきらりと輝くものがあった。
 土方は中島三郎助という男が好きだった。江戸を出るときに、生きて浦賀へは戻らないと妻女に言い置いてきたという。まさしく最後の武士を、中島に見ていた。
「いや、中島さん。あちらの世界でゆっくり酒でもやりましょう。再び会えることを楽しみにしています」
 土方は胸の奥からこみあげるものをこらえた。今は、戦いに赴かなければならない、ゆっくり中島と別れを惜しむ暇はなかった。
「では」
「また」
 と言い合うと、陣屋に大野右仲が飛び込んできた。
「土方さん、弁天台場が孤立します。寒川から敵が上陸して市街を取られました」
 そこへ星旬太郎がすべての準備を整えて、土方の出陣を促しにきた。
「よし、準備はいいな。弁天台場の孤立を防ぐんだ、星、額兵隊を頼む」
「はいっ!」
「大野っ、関門へ向かうぞ!」
「はいっ!」
 一本木関門は五稜郭から箱舘市中へ向かう道に設けられていた。実は以前、この関門で通行する者から通行税を徴収するという案がでた。蝦夷平定をし軍を運営するには先立つものが必要だったからだ。
 その時、大反対をしたのは土方だった。目先の小銭まで市民から徴収することに怒りを覚えたのは、戦の行く着く先が土方の目に映っていたからだ。

 土方は背後の七重浜方面を気にしながら、一本木関門に到着した。
 ここからは湾が一望でき、すでに軍艦で埋めつくされた湾内では敵味方どちらともわからぬ艦砲射撃が繰り広げられている。
 湾にちらりと目をやると、船体の小さな蟠龍丸が右に左に舵をきり、巧みに敵軍艦からの砲撃をよけているのが見えた。
 かつて敵からぶんどろうとして失敗した甲鉄艦は市街地に砲を撃ちこんでいる。甲鉄艦に搭載されているアームストロング砲なら余裕の射程距離内だった。
「星っ!30を残して先へ進めっ!このままでは台場が孤立する。伝習士官隊と新選組が全滅するのを阻止しろ」
「はいっ!ですが奉行は30で大丈夫でしょうか、七重浜にも敵が!」
「30で充分だ。ここで俺が殿を引き受ける、行けっ!」
 馬の手綱を操りながら、土方は土煙のあがる市街地を見ていた。ここから市街地は若干、見下ろす形だ。
 土煙の中から一騎、もの凄い勢いで飛び出してきた者がいる。
 士官隊の滝川充太郎だった。右足の膝から下の特に脛のあたりから出血し、赤黒くなった塊の上からまだ血が流れだしている。
「土方奉行−っ!箱舘山の奪還に苦戦です。一時退却し、五稜郭へ応援要請にっ!」
「滝川っ!酷いけがだ。士官隊もそこまで退却してきているんだな?よし、お前は手当てして来い。士官隊は俺が預かる」
「こんなのは大した怪我じゃない!俺は援軍を要請しに来たんです。とにかく五稜郭へ」
「今、星が額兵隊を連れて出たところだ。五稜郭へ行ったら手当てもして来い、すぐに戻れよ」
「はいっ!お願いしますっ」
 五稜郭へ行っても、援軍などないことは知っていた。それを言わずに滝川を五稜郭へ向かわせたのは、せめて傷の手当てをさせたかったのか、土方にもわからない。
「大野っ!」
 土方が大野右仲を呼んだ。
 その時、もの凄い爆音とともに、箱舘湾で炎が上がり、一隻の軍艦が吹き飛んだ。
 撃ったのは蟠龍丸、吹き飛んだのは新政府軍の朝日丸だった。誰もが音に気を取られ、湾を見た。
「この機を逃すなーっ!大野は士官隊を率いて市街地へ出ろっ。俺はここを守る!」
 撃沈された朝日丸を見て、箱舘軍は再び力を得たように市街地へ突撃していく。

 
 湯川のうめ花のもとへ小芝長之助という男が訪ねてきた。
 年の頃は50くらいだ。五稜郭でも調練でも、うめ花はこの男の顔に心当たりはなかった。聞くところによると、箱舘市中取締りで土方の部下だという。
 仙人のように深い皺の刻まれた顔で、どちらかといえば小柄でキビキビしていた。手に携えていた細長い風呂敷包みをうめ花の目の前で開く。
「これを高松凌雲先生から預かってきました」
「っ?」
 うめ花のスペンサー銃だった。
 土方にうめ花を頼まれた凌雲が、降伏時に不利だといって無理に預かったものだった。
「不思議に思うのも無理はありません。新政府軍から土方奉行の暗殺命令が出されました。暗殺者は箱舘に住む猟師の虎吉です」
「暗、殺?虎吉・・・?
 うめ花の頭の中でその二つの事実がすぐに結びつかない程、いままで忘れていた名だった。
作品名:花は咲いたか 作家名:伽羅