「I」
確かにわたしが最初の第一声を発したのだろう。落としましたよ、と言ったので。
だから、わたしから声をかけたと言われたらそれは間違いではない。
その時は名前も知らなかったが呼びかけられた千寿が振り返り、そしていま生まれたばかりの赤ん坊が産声をあげるかわりに「ウォーター」とでも叫んだのを聞いたかのような顔でわたしを見た。
「ええと、うん……まあ、そうかもしれないんだけど……」
千寿はしどろもどろに意味のない単語をつなぎながら、わたしと自分が落とした小さな平べったい棒を受け取らないまま見比べるようにしていた。
そしてしばらくの不思議な間の後、わたしもようやく気が付いた。千寿はアイスの棒を落としたのではなく、大学の校舎をつなぐ中庭の通路の植込みの影にそっと捨てたということを。
余計なお世話だったというやつだろう。わたしはやっと理解してゴミ箱を探すべく、そのまま踵を返した。
「あ、ごめんごめん。俺がもらうから。ええと綾瀬さん?」
けれど急いで後ろから千寿が追いかけてきたので、今度はわたしが怪訝に眉をよせる番だった。
大学に入学してまだ二か月だ。今まで顔も見たことない人物に名前を知られているというのは捨てたごみを拾われるより驚くことだろう。
残念ながら、たった二か月で有名になれるような容貌にも才能にも恵まれはしなかったのだから。
わたしが不審そうにしていたせいか、そこで千寿は自分の名を名乗り、わたしと同じ学部の同級生だということも明かした。
言われてもまったく聞き覚えのない名前だったし、記憶を探っても顔に見覚えもなかった。
「まあ、そこそこ人数いるしねー」
千寿はとくに気分を害した風もなくあっさりと笑った。
「でも、綾瀬さんは目立たないことで目立つから」
だから三ケタを超える程度の学生がいてもわたしの名前を知っていたのだと。よくわからないことを千寿は言った。
とにもかくにも、実際はさておいてもそれが喜多千寿という同級生とわたしが初めて出会ったと言える日で、そこから彼と不思議な付き合い方をしていくとは予想などできるはずもなかったのだった。
「友達をいらないと思ったことはない。けれど積極的にほしいと思ったことはない?」
千寿はわたしの発言を繰り返して、それから首を傾げた。
「わかるようでわからないけど、でも意外ー」
次に千寿と話をしたのは大学の長い長い夏休みが終わった後だ。夏休みの間になにか心境の変化があったのかしらないが、なぜか千寿はわたしの近くの席に座りあれやこれやと質問をしてきた。
そんなことを聞いてどうするのだろうというものばかりだったが、一番彼が関心を示したのがその質問だった。
「綾瀬さん、友達なんていらないわってタイプかと思ってた」
どうしてそう思うのか、彼にわたしがどう見えているのかについては千寿は語らなかった。
「まあでも結果的に一人ならおんなじことかな?」
かな? と言われてもさっぱりわからない。わたしはあいまいに首をかしげる。
「友達、友達ねえ」
千寿は口の中で何度か繰り返した。
「確かにいなければいないでいいのかな。なんかつまんないことでイラッとしたりされたりするし、喧嘩したりさあ。俺、ほんっとどうでもいいことで揉めたりするからねー。学食で、アイスコーヒー頼んで使いかけのガムシロを友達のトレイにちょっとこぼしたら文句言われて。全部使い切らないのが悪いんだっつって喧嘩したことある」
たまたまお互い虫の居所が悪かったんだと思うけど、と千寿は付け足した。
「後から考えたらなんでそんなことで自分マジ切れしてんのかって思うんだけどくだらないのわかるんだけど、そいつの言い方とかさ、普段の態度とか考えたらうるせえってなるんだよね」
そういうものなのか、たまたま千寿がそういう性格なのか比較対象がないのでよくわからないがわたしとは全く異なる性質なのは間違いなさそうだった。
「そうだねー。綾瀬さんってなんか怒ったりするの? どういう時むかついたりすんの?」
わたしは少し考えた。もちろん怒ることはある。けれど、どういう時と改めて尋ねられると的確な返事は難しかった。
しばらく黙って記憶と言語とを一致させるよう脳を使っている間、千寿も無言のままわたしの回答を待っていた。
どうして彼はそんな質問をするのだろう。興味があるからだろうか。わたしに。他人に。誰かの心に。その心から生まれるあらゆる事象に。
別のことを考えている場合ではなかった。わたしが思考を遊ばせている間も、千寿は頬杖をついた姿勢のままわたしが再び口を開くのを待っている。不思議な人だな、と思った。
怒る時。わたしがこれまで怒ってきたのはどういう時だったろう。
結局迷いながら、あくまでも一つの例としてわたしはルールを守らないことで誰かに迷惑をかける人がいる時と答えた。
「ふうん。ルールか。ルールね」
千寿はまた復唱した。そして軽く驚いたように姿勢を伸ばした。
「あ、じゃあもしかしたら綾瀬さんは最初俺に声をかけたときホントは怒ってたってことか」
話が飛んだ気がしてわたしは瞬きを繰り返す。
「ほら、俺が食ったゴミをポイ捨てしたから」
千寿は身を乗り出すようにして説明してくれたが、わたしはあの時腹を立てて声をかけたつもりはなかった。
単純に本当に、千寿がつまむようにもっていたアイスの棒が指から滑り落ちたのだと思ったのだった。
「そっかあー。うん、まあ気を付けるよ。ごめんね」
謝られる理由がわからないでいると、千寿は笑った。
「いやあ、綾瀬さんと友達になろうかと思って。俺」
千寿はわたしが返事に困ってしまうことをよく言うが、この時がその最たる場面だったと思う。
結局面食らったまま、適当な返事ができなかった。
わたしの答えが必要でもなかったのだろう、返事をうながされることもなかった。
秋になって暑さが本当に一段落したのだなと実感したころ、校舎の周りの木々が赤く色づいたのを眺めていたら千寿がふらりとやって来た。
わたしたちはおそらくこの間のどこかで友達になったのかもしれない。千寿の周りには友達がたくさんいたが、時々こうやってそばに来てなんやかんやと話してはまた去っていく。
にぎやかな彼が近くに来ると、わたしも葉っぱのように何か色づく気がする。それがたぶん千寿の色だ。
望むと望まざるとに関係なく、他人と接触をするということはその分何かしらの色が混ざってくるのだろう。
「えええ、そうかなあ。俺が綾瀬さんに影響与えてる感じしないけど。ちっともしないけど。まるっきりしないけど」
千寿はわたしの言葉に大げさなほど声をあげて否定した。
「綾瀬さんはねー、黄葉とかじゃなくてー」
じゃなくて、と千寿は考えるように繰り返す。
「そうだねえ、なんか山の中の湖みたいな? ひっそりしすぎて葉っぱ一枚浮いててもそよがない的な。で、俺が小石ね。投石した瞬間だけ波紋が揺れるけど、またすぐ飲み込んで元通りになっちゃう」
褒められてる気があまりしないので、素直にそう言うと千寿はおかしそうに笑った。
「まあ、半分だけね。長所は短所っていうでしょ。綾瀬さんに限らずさあ」
だから、わたしから声をかけたと言われたらそれは間違いではない。
その時は名前も知らなかったが呼びかけられた千寿が振り返り、そしていま生まれたばかりの赤ん坊が産声をあげるかわりに「ウォーター」とでも叫んだのを聞いたかのような顔でわたしを見た。
「ええと、うん……まあ、そうかもしれないんだけど……」
千寿はしどろもどろに意味のない単語をつなぎながら、わたしと自分が落とした小さな平べったい棒を受け取らないまま見比べるようにしていた。
そしてしばらくの不思議な間の後、わたしもようやく気が付いた。千寿はアイスの棒を落としたのではなく、大学の校舎をつなぐ中庭の通路の植込みの影にそっと捨てたということを。
余計なお世話だったというやつだろう。わたしはやっと理解してゴミ箱を探すべく、そのまま踵を返した。
「あ、ごめんごめん。俺がもらうから。ええと綾瀬さん?」
けれど急いで後ろから千寿が追いかけてきたので、今度はわたしが怪訝に眉をよせる番だった。
大学に入学してまだ二か月だ。今まで顔も見たことない人物に名前を知られているというのは捨てたごみを拾われるより驚くことだろう。
残念ながら、たった二か月で有名になれるような容貌にも才能にも恵まれはしなかったのだから。
わたしが不審そうにしていたせいか、そこで千寿は自分の名を名乗り、わたしと同じ学部の同級生だということも明かした。
言われてもまったく聞き覚えのない名前だったし、記憶を探っても顔に見覚えもなかった。
「まあ、そこそこ人数いるしねー」
千寿はとくに気分を害した風もなくあっさりと笑った。
「でも、綾瀬さんは目立たないことで目立つから」
だから三ケタを超える程度の学生がいてもわたしの名前を知っていたのだと。よくわからないことを千寿は言った。
とにもかくにも、実際はさておいてもそれが喜多千寿という同級生とわたしが初めて出会ったと言える日で、そこから彼と不思議な付き合い方をしていくとは予想などできるはずもなかったのだった。
「友達をいらないと思ったことはない。けれど積極的にほしいと思ったことはない?」
千寿はわたしの発言を繰り返して、それから首を傾げた。
「わかるようでわからないけど、でも意外ー」
次に千寿と話をしたのは大学の長い長い夏休みが終わった後だ。夏休みの間になにか心境の変化があったのかしらないが、なぜか千寿はわたしの近くの席に座りあれやこれやと質問をしてきた。
そんなことを聞いてどうするのだろうというものばかりだったが、一番彼が関心を示したのがその質問だった。
「綾瀬さん、友達なんていらないわってタイプかと思ってた」
どうしてそう思うのか、彼にわたしがどう見えているのかについては千寿は語らなかった。
「まあでも結果的に一人ならおんなじことかな?」
かな? と言われてもさっぱりわからない。わたしはあいまいに首をかしげる。
「友達、友達ねえ」
千寿は口の中で何度か繰り返した。
「確かにいなければいないでいいのかな。なんかつまんないことでイラッとしたりされたりするし、喧嘩したりさあ。俺、ほんっとどうでもいいことで揉めたりするからねー。学食で、アイスコーヒー頼んで使いかけのガムシロを友達のトレイにちょっとこぼしたら文句言われて。全部使い切らないのが悪いんだっつって喧嘩したことある」
たまたまお互い虫の居所が悪かったんだと思うけど、と千寿は付け足した。
「後から考えたらなんでそんなことで自分マジ切れしてんのかって思うんだけどくだらないのわかるんだけど、そいつの言い方とかさ、普段の態度とか考えたらうるせえってなるんだよね」
そういうものなのか、たまたま千寿がそういう性格なのか比較対象がないのでよくわからないがわたしとは全く異なる性質なのは間違いなさそうだった。
「そうだねー。綾瀬さんってなんか怒ったりするの? どういう時むかついたりすんの?」
わたしは少し考えた。もちろん怒ることはある。けれど、どういう時と改めて尋ねられると的確な返事は難しかった。
しばらく黙って記憶と言語とを一致させるよう脳を使っている間、千寿も無言のままわたしの回答を待っていた。
どうして彼はそんな質問をするのだろう。興味があるからだろうか。わたしに。他人に。誰かの心に。その心から生まれるあらゆる事象に。
別のことを考えている場合ではなかった。わたしが思考を遊ばせている間も、千寿は頬杖をついた姿勢のままわたしが再び口を開くのを待っている。不思議な人だな、と思った。
怒る時。わたしがこれまで怒ってきたのはどういう時だったろう。
結局迷いながら、あくまでも一つの例としてわたしはルールを守らないことで誰かに迷惑をかける人がいる時と答えた。
「ふうん。ルールか。ルールね」
千寿はまた復唱した。そして軽く驚いたように姿勢を伸ばした。
「あ、じゃあもしかしたら綾瀬さんは最初俺に声をかけたときホントは怒ってたってことか」
話が飛んだ気がしてわたしは瞬きを繰り返す。
「ほら、俺が食ったゴミをポイ捨てしたから」
千寿は身を乗り出すようにして説明してくれたが、わたしはあの時腹を立てて声をかけたつもりはなかった。
単純に本当に、千寿がつまむようにもっていたアイスの棒が指から滑り落ちたのだと思ったのだった。
「そっかあー。うん、まあ気を付けるよ。ごめんね」
謝られる理由がわからないでいると、千寿は笑った。
「いやあ、綾瀬さんと友達になろうかと思って。俺」
千寿はわたしが返事に困ってしまうことをよく言うが、この時がその最たる場面だったと思う。
結局面食らったまま、適当な返事ができなかった。
わたしの答えが必要でもなかったのだろう、返事をうながされることもなかった。
秋になって暑さが本当に一段落したのだなと実感したころ、校舎の周りの木々が赤く色づいたのを眺めていたら千寿がふらりとやって来た。
わたしたちはおそらくこの間のどこかで友達になったのかもしれない。千寿の周りには友達がたくさんいたが、時々こうやってそばに来てなんやかんやと話してはまた去っていく。
にぎやかな彼が近くに来ると、わたしも葉っぱのように何か色づく気がする。それがたぶん千寿の色だ。
望むと望まざるとに関係なく、他人と接触をするということはその分何かしらの色が混ざってくるのだろう。
「えええ、そうかなあ。俺が綾瀬さんに影響与えてる感じしないけど。ちっともしないけど。まるっきりしないけど」
千寿はわたしの言葉に大げさなほど声をあげて否定した。
「綾瀬さんはねー、黄葉とかじゃなくてー」
じゃなくて、と千寿は考えるように繰り返す。
「そうだねえ、なんか山の中の湖みたいな? ひっそりしすぎて葉っぱ一枚浮いててもそよがない的な。で、俺が小石ね。投石した瞬間だけ波紋が揺れるけど、またすぐ飲み込んで元通りになっちゃう」
褒められてる気があまりしないので、素直にそう言うと千寿はおかしそうに笑った。
「まあ、半分だけね。長所は短所っていうでしょ。綾瀬さんに限らずさあ」