料理に恋して/カレー編
B1
子供を産んでおけばよかった。
妊娠したことあったけど、
堕ろしていた。
売れない詩劇の演出家と
若い頃のわたしの間に
芽生えた子。
偽悪的な人だった。
籍は入れなかったけど、
結婚式は挙げていた。
「産んでおけばよかった」
彼は仕方なさそうに
「産むか」
と言ったけど、
仕方なさそうなのが嫌で、
わたしは勝手に堕ろしていた。
思い出の数々が
次々と破裂する。
2
彼のせいにしたかっただけかも。
本当は自分が産みたくなかった。
人生を規定されるようで、
線で囲まれるようで、
「まだ、子供は要らない」
そう思っていた。
そんな彼とも
すったもんだの末、別れていた。
偽悪的な彼を泣かしたのは
わたしの方だった。
*
わたしはカレーの匂いに誘われる。
「おいしい料理は人を幸せにする」
のを思い出す。
コミュニケーションにもなる。
「すっかり忘れてたわ」
どんな顔をして、
入ろうかと思う。
先生の顔?
近所の主婦の顔?
見栄を張って、
ミシュランガイドの
覆面調査員?
3
店の前を通り過ぎてしまう。
青春そのものって感じの子がいた。
わたしの娘だっても
全然、おかしくない年。
「ここの、卒業生よ」
と言いたくなる。
「こんな風にならないでね、
悪い見本よ」
わたしはUターンする。
人間、どこまでバカかの
見本に自分が思えた。
意地悪な心が出入りする。
*
正社員のレールを踏み外した、
非正規雇用の末路。
当時、正社員にならないと、
将来が怖いなんて、
思いも寄らなかった。
怖がって、
正社員になる人、
なんていなかった。
4
親になってないから、
両親のありがた味や
親の気持ちに気付くのが
「全然、遅かったわ」
無償の愛ってのが
今なら分かる。
悩んでいても
お腹は空いた。
「葛藤まで古くなりたくない」
わたしはお店の前を通り過ぎる。
5
前から、ダックスフントを
散歩中のおばさん。
後ろから、
自転車に乗った幼い女の子の
二人が徒歩のわたしを追い抜く。
「可愛いー、おばちゃん、
その犬、目茶可愛いー」
「ありがとう」
おばさんと一緒に
犬がその子を見上げている。
自転車を立ちこぎしながら、
友達の女の子に
「可愛すぎー」
「そうね」
とわたしは独り言で同意する。
そんな風に感動できる、
あなたの方がずっと可愛い。
わたしの歩くテンポが
逃げるように速くなる。
堕ろさずに産んでいたら、
どんな子に育っていたの?
優しい子になって欲しかった。
わたしは全然、優しくない。
母が宗教に走ったのは
中学時代のわたしのせい。
6
わたしの足は餃子の王将に向かう。
わがままになって、
甘えたかった。
思いっ切り、
わがままになって、
思いっ切り、
甘えたかった。
年齢を重ねるごとに
それができなくなる。
わたしの足は餃子の王将に向かう。
7
苦い思い出。
「家族で王将に来るぅ?」
当時の友達に
問いかけたものだったが
隣りのテーブルの
ご主人に聞こえていた。
その若い夫婦から
チラッと見られて
やばいと思ったものの、
二人の子供はテーブルに
いっぱいの料理をおいしそうに
幸せそうに食べていた。
「失言どころじゃない」
わたしは最低だなぁ。
今も最低。
結婚もできず、四十才、
友達もおらず、
「天罰だわ」
わたしは見上げた、
王将の看板にまで
嫌われてる気がする。
作品名:料理に恋して/カレー編 作家名:紺や熊の