アキちゃんまとめ
メランコリーキッチン-2
残念ですが。
そう前置きされた話の内容を、アキは受け止めきれなかった。
あれは荒北と共に帰路についていたときのことだ。平日の一日休みを利用して近所のスーパーで食材を買い込み、夕飯のメニューについて話しながら歩いていた。たぶん、荒北も、アキも悪くは無かった。ただ、運が悪かったのだ。荒北が靴の紐がほどけていることに気付いて歩道の隅に寄ってしゃがみこみ、それを二歩ほど先からアキが振り向く。荒北が顔をあげた瞬間、猛スピードで十字路を曲がってきた車がそのままぽん、とアキの体を押し出した。十秒にも満たない、刹那の出来事であった。
命に別状はなかった。手術も成功した。それでもアキはじっとりと汗をかいた手を膝の上で握りしめ、元々白い肌をもっと白く、病的なものにまでしている。
「荒北さんはよく頑張りました。あなたの努力があってこそ、ここまで回復したんです。しかし、これ以上リハビリを続けても、劇的によくなることはありません」
「……」
「今の状態が、回復の限界でしょう」
アキは自分ひとりにあてがわれている病室のベッドの上で、弱弱しく、そうですか、とだけ呟いた。ベッド横にある椅子には、アキの母と姉がそれぞれ腰かけている。二人が何も言わないのは、言うべき言葉が無いからだ。今、医師に告げられた言葉は残酷なまでの現実で、真実だ。
命に別状は無かった。ただ、少し起きるのが遅かっただけ。事故直後は意識の混濁もあったが、元の気丈さを取り戻してから、アキは意欲的にリハビリに励んだ。車に引きずられた両足は、膝から下、足首にかけて今も生々しい傷跡が見えている。意識が戻った当初は何かに掴まって立つことすらできなかった。それでも以前のようになると信じて、毎日のように見舞いにくる荒北と息子たちを励みにしてリハビリを続けた。その甲斐あって、ようやく杖を使いながらもゆっくりと歩けるようになってきたところだった。
これからもっとよくなるはず、と考えた矢先の医師の言葉は、的確にアキの心を抉った。
医師が退室した後も、アキは呆然とタオルケットに隠された自分の両脚を眺めていた。走ることも、泳ぐことも、跳ねることもできない。それどころか自分の足でしっかり歩くことも。どうにか杖を使って歩くことができるようになっただけで、すぐに足は限界だと悲鳴を上げる。病院の中庭でさえ、移動するには車椅子だ。
どうしよう、と思った。どうして、とは思わなかった。あそこにアキが立っていなかったなら、車はきっと荒北を轢いていたことだろう。自分の体が障害物となって、車の軌道をずらしたのだと聞いている。そういえば運転手はどうなったのだろう、酷い怪我でなければ良い、とアキは考えようとする。自分に思い込ませなければ、全てを呪ってしまいそうだったからだ。
ベッドに巻島が腰かけたのが視界の隅に映る。それからアキをそっと抱き寄せ、頭を撫でた。アキにはもう二人の息子がいて、結婚して何年にもなる。けれども実際にはまだ二十代前半の、人生経験もままならないか弱い少女だ。
アキは巻島の腕の中で音も無く涙を流し続けた。だって、これでもう、すぐに抱っこしてくれとせがむ次男を抱き上げて散歩することも、甘え下手な長男と一緒に図書館の中を歩き回ったりできない。それから何より、荒北に多大な迷惑をかけてしまう。ただでさえ二回り近くも年齢が離れているのだ。これで少しでも厄介だと思われてしまったらどうすれば良いのだろう。アキは荒北のことを愛している。今までも、そしてこれからも一番に想い続ける自信がある。だからこそ、荒北のお荷物になるなんてことは真っ平御免だった。
そこまで考えて、アキは身をよじって巻島の腕から逃げようとする。バランスを崩してベッドから落ちそうになるアキを支えようとする姉の手を振り払った。
「アキちゃん!」
「離して!」
キン、と耳触りになるくらい高い声が出て、アキ自身が驚いた。けれどもベッドの上で躍起になった小さな身体が今度こそ落ちそうになった瞬間、女性のものとは違う腕に支えられた。
「アキちゃん」
いつの間に入ってきたのだろう、とアキは思った。背後から抱きすくめられるようにして引き戻された身体はすっぽりと突然の登場人物に覆われてしまった。
「退院許可、貰ってきたヨ」
そんなの意味ない、と言いたかった唇は微かに動くだけで音にはできない。たった数週間、数か月のことなのに、この温もりを永いこと感じていなかったように思えてしまう。
胸元に引き込まれ、先ほど巻島がしてくれたように抱きしめられる。それでも、厚い胸板や大きな手のひらは全然違っていた。最初で最後の、アキが恋をした、たったひとりの男のものだ。
「帰ろうゼ、ガキたちがいい加減うるせェんだ」
おずおずと首を振っても、それを無視した力で抱きしめられる。小さい頃からそうだ。悲しくて、寂しくて、それでも泣き叫べなかったときはこうして荒北が傍に居てくれた。
何もできない、キッチンにも立てないし、洗濯ものだって干せるかわかんないし、買い物も、どこにも行けない、なんにも、ひとつも。
ひきつる喉でそんなことを言ったのだろう。自分と、荒北の胸から聞こえる心臓の音で、自分の言おうとしていることが形になっているのか分からなかった。けれども荒北には聞こえたのだろう。髪を撫でられ、耳元に唇を寄せられて、冷たくなった頬に熱が移る。
「それでもいいヨ」
ダカラ一緒に帰ろ。
懇願するように囁かれた言葉に、アキは頷くこともできずにただただ荒北にしがみついたまま泣いた。