アキちゃんまとめ
三千世界の刀を屠り 主と添い寝がしてみたい-7
屋敷の中に入り、まず目に入ったのは朽ち落ちた梁であった。
広間であっただろう場所の中心に、黒く腐食した太い梁松が斜めに落ちて床に沈んでいる。襖には赤黒い染みが広がり、殆どのそれは開け放たれているか床に放られている可だった。ここに彼女を連れ込んでいるというのなら、荒北はその場違いさにも腹が立った。
一歩を踏み出せば、今更ながらも土足であったことを思い出す。しかし草履を通り越す不快な感触に、申し訳なさはすぐに掻き消えた。
部屋どころか、屋敷に充満する重苦しい、増悪と腐臭。鼻先を擦ってどうにか彼女の痕跡を辿れないかと奥へと歩を進める。脚に纏わりつくような鈍重な悪意たちはあれど、先程までとは打って変わり飛び出してくる骸もない。息を殺して屋敷の中を探る荒北の背にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。
彼女を見付けて、それでどうするというのだろう。
荒北は、いつか、新開に「どうして走るのか」と問われた時のことを思い出していた。あの時の荒北には何も無かった。福富が見せつけた、自転車の可能性だけが目の前をちらついて、届かないままそれに焦がれた。
ぐっと唾を飲む。あの時、必死に手繰り寄せた糸の先にあったゴールの匂い。それに似たものを失うのではないかという漠然とした不安だけが、今の荒北を突き動かしていた。
荒北が穴が開きっ放しの板張りの廊下を歩き、屋敷の奥へと辿り着くだろうという時、突然、ムッと煤けた臭いが鼻をついた。
「――!」
バン!と左側にあった襖が内側から剥ぎ飛ばされ、人型をした骸がその上で波打つ。荒北が喉奥から零れそうな悲鳴を飲み込むと同時に、鋭い刃がその小さな骨たちをも擂り潰すかのように白銀の太刀筋を描いた。
「何故お前がいる!」
圧し掛かる体勢で断末魔と共に悶える骸を抑え付けたのは長谷部だった。藤鼠の鮮やかだった外套はところどころで黒く汚れている。それが煤や、返り血といった外界要因だけではないことが荒北にも分かった。
「ンなこたァ蜂須賀にも言われたっつーの!」
わざと声を張り上げ、精一杯の虚勢を張る。ここで行われているのは、ただの演武ではない。血で血を洗う、魑魅魍魎と畜生の争いだ。
付喪神は確かに神である。しかし彼らは今、人の姿を持ち、自分の本体を使って相手を斬る。躊躇いは無い。主に害をなすものたちを一層するためだけに存在している。なんという執念だろうか。荒北は長谷部の横顔に摩耗した神経を見て、腹の底に冷たいものを感じた。
チッという舌打ちと共に長谷部は立ち上がり、再び室内へと戻っていく。荒北は動かなくなった骸を飛び越え、それを追う。すると襖に隠れて見えていなかった右方向から一閃が飛んでくる。咄嗟に伏せるところ一撃を躱せば、おや、という意外そうな声が聞こえる。
「キミは、」
燭台切光忠が刃を翻しながら荒北の全身を観察した。
そして荒北が何か返答するよりも早く、眉を顰めたかと思えばその長い足で悠々と荒北を飛び越え、向かいに居た髑髏を切り裂く。そして右肩に着けられた甲冑袖で飛んできた短刀を払いのけた。
荒北に向き直ったその端正な顔には、似合わぬ煤がついており、滲んでいた汗ごとそれをぐいと拭う動作が様になっていた。
「主を追って、ここへ?」
「おい光忠!」
荒北に問いかけた光忠にかかった声は長谷部のものだ。光忠の背後からわっと噴出してきた蛇型の骸が彼に遅いかかるも、光忠は振り向きざまに一閃を斬り上げ、ふっと小さく息を吐くと同時に横一文字に引き裂いた。断末魔が響き、がらがらと狂い落ちていく骸骨たち。
太刀はその攻撃力も打刀や短刀と比べて段違いであるということを荒北は思い出す。光忠は太刀に属する種類の刀で、機動力も打刀に引けを取らない。
「まったく、君たち人間というやつはいつも予想外すぎるね!」
光忠は呆れたように肩を竦める。それがやけに演技がかっていて、荒北は鼻を鳴らす。光忠からは、荒北への敵意は感じられない。それよりもこの状況に在る筈もない心臓が狂い鳴っているのだということだけが肌で感じられた。彼らにとっては、唯一神である筈の審神者が浚われたのだ。心中穏やかでいられるはずもないだろう。長谷部や蜂須賀のように切羽詰まった声で激しくののしってくれたほうがいい。その方がずっと、安心できる。
しかし光忠は人間の子供にそれを見せることを激しく厭んでいるようであった。
「…おいで」
掠れた声で、荒北を導く。内部屋が続いていくそこには、夜だからなどという理由だけでは済まされない闇が広がっている。その中で光忠の白いシャツと、月光の色をした瞳だけが浮いたように輝いていた。
光忠と進めば進むほど、足下に纏わりつく異形の気配が濃くなり、視界も悪くなる。淀んだ気が荒北の鼻を刺激し、アキの持つ香りはどこにも感じられなかった。
一度も言ったことはなかったが、荒北はアキの持つ、真っ直ぐに背を伸ばす百合のような清涼な香りのことを密かに好ましいと思っていた。泉田も努力家の、澄んだニオイをしていたが、アキの香りはそこに一滴、花の蜜が落ちたようなものだった。荒北は当初、それをアキの持つ現代日本への繋がりの懐かしさからくるニオイだと思っていた。故郷を恋しがり、アキにそこへの救済を求めているのだと。だが、こうした悪意のニオイの中に放り込まれればすぐにわかる。
そんなにも、優しくて、純粋で、殊勝な気持ちで彼女の隣に居たのではなかったのだ、と。
不意に、荒北の鼻に、微かな清流の匂いが届く。はっとして顔を上げ、周囲を見渡すが視界は悪く、荒れ果てた室内ばかりが目につく。それにより、光忠から数歩の遅れが出てしまったことに振り向いた光忠が気付く。声をかけられるより早く、視界の端に赤い光が見えた。ぽっかりと空いた眼窩の奥から覗く、骸の悪意だ。はっとした荒北が身を引くより早く、視界に萌黄色の生地が広がる。
それにより、石切丸に庇われたのだ、ということが一瞬遅れて荒北の脳に理解として届いた。
「光忠、仮にも他の刀剣の主である彼をここまで連れてくるのは頂けないよ。命を落としてしまっては、彼にとっての私たちが狂うだろう」
「すまない。けれど、人間は情を愛するんだろう? それこそ主を失っては彼が狂うと僕は思った。そうなればどちらの本丸も共倒れだ」
二人のやりとりに、わざと荒北は介入しなかった。どんな言葉も、どんな台詞も、今ここで口にしてしまうには複雑すぎる。特に光忠の口ぶりでは、荒北がアキにほれ込んでいるといったことを思われているのだろう。荒北はそこだけは訂正したかったが、この場での自分の立場が悪くなることは分かっていたため、口をつぐむ。
それにしても、と荒北は今更ながら呼吸が楽になっているのを感じた。石切丸の周囲だけは淀んでいた空気が嘘のように呼吸が軽くなり、荒北は深呼吸をした。久しぶりに肺が機能している。
肺一杯に空気を吸い込めば、そこに微かな花の香りを感じ取る。石切丸の匂いかとも思ったが、そうではない。石切丸そのものには、薄荷のようなすっとした匂いがある。
それとは別に、流れてくる空気の中に、ひとひらの花びらのように混じる彼女の香り。
「――居る」